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土木遺産③ 香里団地以楽公園-団地の輝きを語り伝える日本庭園

土木遺産③ 香里団地以楽公園-団地の輝きを語り伝える日本庭園

2020.12.4

 

都市公園の域を超えた高い風格を見せる以楽公園

 戦災による焼失と復員や引揚げによる世帯の増加により、終戦時には住宅の不足は420万戸とも言われた。そこで住宅を大量に供給する目的で日本住宅公団が設立された(1955(昭和30)年7月)。公団の開発力は抜群で、早くも翌年4月に最初の公団住宅として金岡団地(堺市)を開設したのを始め、大都市周辺でさかんに団地を建設した。しかしこれが自治体にとっては新たな問題となった。学校・道路・上下水道などの公共施設の整備やゴミ収集などの公共サービスが追いつかない事態になったのである。

 

 そこで公団が考えたのは都市計画に基づいた区画整理事業により大規模なニュータウンを作るという方法だった。この最初の施行が香里団地(枚方市)で、155haの敷地に住宅のほかに道路・公園・上下水道などの公共施設を整備し、百貨店ブランドのショッピングセンター・診療所・市役所支所・集会所などを設けた。洋式水洗便所1)・ガス風呂・ステンレス流し台を備えた近代的住戸仕様とニュータウンの美しく整った都市的環境は人々のあこがれを集めた。入居開始は1958年。入居者の中には多田道太郎らの文化人が含まれ、彼らが中心となって「香里ヶ丘文化会議」が発足するなどきわめてハイソサイエティな雰囲気であった。ロバート・ケネディ司法長官夫妻やサルトルとボーヴォワールが来訪したことも香里団地の評判を押し上げた。

 

 香里団地には16の公園があるが、そのうち最もよく手入れされているのは以楽公園。昭和の天才作庭家と言われた重森三(み)玲(れい)2)の作品だ。池泉回遊式の日本庭園を手がけてきた彼が都市公園にタッチするのは極めて異例。このことだけでも、当時の団地のステータスを充分に表して余りない。

図-1 巨石を大胆に配するのが重森三玲の技法だ
図-2 60年を経て成熟した街路空間を形成するけやき通り、背後で住棟の更新が進む
図-3 “団地の花”と言われたスターハウス3)、香里団地には4棟が残る

 

1)香里団地の開設時に枚方市には公共下水道はなかったため、公団は自前で団地内に下水処理場を整備した。なお、現在は香里処理場は廃止され渚処理場へ流入している。

2)重森三玲(1896(明治29)年~1975(昭和50)年)は岡山県に生まれ1929(昭和4)年に京都に移って華道・茶道を学びながら造園を独学した。東福寺方丈庭園(京都市)、光明院波心庭(京都市)、岸和田城八陣の庭(岸和田市)などを残している。旧宅(京都市左京区吉田上大路町)は「重森三玲庭園美術館」として公開されている。

3)スターハウスとは三方にY字形に突き出たように配置した集合住宅のこと。各戸の独立性が高く採光・通風に優れることから人気があった。

筆者:坂下 泰幸

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