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土木遺産第60回 雲原砂防設備群

土木遺産第60回 雲原砂防設備群

2025.9.12

雲原砂防ー土木技術が政治力と出会うとき

雲原地区で最大の堰堤である上三岳川第1号堰堤

 

福知山市の雲原地区は市域の最北端にあって、昭和30(1955)年4月に市に編入されるまでは雲原村と称していた。面積は14km2あるが、周囲を700~800mほどの山に囲まれ大部分は山林である。これらの山から流れ出る深山(みやま)川、横尾川、三岳(みたけ)川が3方向から合流して雲原川となって東流する。

 

こういう地形であったから、昔は川に沿った街道が交差する交通の要所としてにぎわった。宿屋や茶店が並ぶほど往来が頻繁で、ちりめんの運搬作業に当たる者も多く、付近で生産される蚕糸を集めて製糸工場も操業していた。しかし、1924(大正13)年の宮津線開通により交通上の機能を喪失し、その後は自給的性格の強い山間の集落として停滞を余儀なくされた。

 

一方で、川はしばしば災害をもたらす。とりわけ大きかったのは1934(昭和9)年の室戸台風によるものであった。河川堤防の決壊3,566m、道路の決壊・埋没277m、橋梁の流失・破損228橋など、被害額は81,780円(現在価格にして約2億円)にものぼり、人口800人程度の村で対応できるものではなかった。

 

この復旧を行うことになったのは西原 亀三(1873(明治6)~1954(昭和29)年)だった。西原は、家業である製糸業が没落して17歳で雲原村を出てさまざまな職業を経験した後、上京して代議士の秘書となり、以後、政界と深くかかわるようになっていた。そんな折、水害に苦しむ村民から依頼され、1935(昭和10)年に顧問を引受けた。村を復興させるためには最高の砂防工事を施して二度と水害を受けないようにする必要があると考えた西原は、内務省に赤木 正雄1)を訪ねて(35年3月)技術的協力を依頼した。その後、軍の横暴によりついに軍人が組閣する事態になった(37年2月)ことに絶望し、38年に中央政界を離れて雲原村に戻り、以後13年間にわたって村長として村民の指導に尽力した。

 

赤木のかねてからの持論は、砂防は上流から下流まで一貫した計画のもとに施工すべきというものであったが、西原の依頼を受けて、雲原で自身の考えに基づく模範的な砂防事業を実施したいと考えたようだ。1935年4月に西原の招きで雲原村の被災状況を視察した赤木は、あるべき砂防事業の方針を西原に説明した。西原はその方針での実施を希望したが、事業に多額の費用を要することを赤木から聞かされ、その予算獲得に奔走する。室戸台風で被害の大きかった兵庫・岡山・鳥取・島根県選出の衆議院議員とともに後藤 文夫内務大臣や高橋 是清大蔵大臣に陳情するなどして、ついに予算獲得に成功した。こうして雲原村の砂防事業が始まることになった。

図1 雲原地区の砂防設備の概要

 

工事は、赤木の指導を受けて京都府の直営で行われた。現地を視察した赤木は三岳川の対策が最優先と考えたので、初期の事業は三岳川とその支流に集中している。そして39年3月には雲原地区の砂防設備でも最大級の規模をもつ上三岳川第1号堰堤(標題の写真、H=7.0m、L=37.5m)が完成し、翌年度にはさらに2基の堰堤が完成している。次いで事業は深山川と横尾川の水系に拡大し、40年3月に長曽谷川第1号堰堤(図2、H=5.0m、L=18.0m)が完成した。これらの堰堤により、山腹から流出する土砂はひとまず止められた。

図2 長曽谷川第1号堰堤の現況

 

堰堤と並行して進められたのは、延長15kmに及ぶ水路工である。災害を受けたとき、雲原地区の河川はひどく曲がりくねっていた。その状態のままでは流量が増えた際に川岸が削られて危険である。赤木は川の線形を変えることを考えた。山間部では農地はたいへん貴重であり、事業によりこれを失うことは農民にとって大きな痛手である。そこで農地の交換分合を行った。

 

ここでは西原の指導力が大いに発揮された。雲原において特徴的なのは、農地の交換に併せて住居の移転2)も行ったことである。分散した農地を所有していた者はそれを集約したところに移転したケースが多かったと思われるが、西原はこれに農地解放(農地を持たない小作人に大地主の農地を売り渡すこと)を組合せたので、農地を得るために西原の施策に協力した者も多かったと思われる。

 

砂防事業を契機として、各農家の営農規模の平均化と集落の再編が行われたのであって、まさしく村をひっくりかえすような大改革であった。戦後の農地解放を待たずして自作農地の理想を遂行した西原の先見性は大いに評価されている。ただし、交換計画は民主的な手続きを踏んだとは言い難く、西原による強圧的なものだったというそしりはまぬがれない。

 

とまれ、このようにして農地の交換がスムーズに進んだことから、同時に、流路の変更もスムーズに進んだ。流路には一定区間ごとに段差を設ける床固工が施されるとともに、川底や護岸には石を張って浸食を防いだ。

 

事業が全て完了したのは1952(昭和27)年度。投じられた工事費は776万円余を数えた(表1)。これについて京都府は、護岸に用いる石材とコンクリートの骨材はすべて現地から発生するものを使用し、労力についても村民の出役を得たので、工事費は比較的安価に済んだとしている(参考文献2)。

 

表1 雲原砂防に投じられた工事費(出典:参考文献2)

 

図3 線形改良を施した深山川流路工(上)と横尾川流路工(下)

 

もうひとつ表1から読みとれるのは、戦時中もとぎれなく砂防事業費が計上されていることだ。これには、赤木が西原を通じて知り合った政治家とのつながりを強め、予算の確保を図ったことが大きいとされている(参考文献3)。すなわち、1935(昭和10)年に赤木が中心になって「全国治水砂防協会」が設立され、赤木が42年に退官した後も彼は議員と懇談会を開くなどして関係を維持し続けた。

 

雲原の砂防事業は赤木が理想とした姿で完成した。完成の翌年には台風13号が近畿地方を襲い室戸台風を上回る雨を降らせたが、雲原村では災害は皆無であった。やがて2006(平成18)年に、堰堤7基、床固工117基、流路工を含む総延長11.5kmが、全国で初めて遺跡として国の登録記念物となった。このような砂防事業が実施できたのは、赤木の技術力や努力もさることながら、西原の中央政界における人脈と村長としての強い指導力のたまものである。土木は政治と結びついたときに最大の力を発揮するのかも知れない。また、砂防事業と併せた村づくりはたいへん注目を浴び、多くの視察者が訪れた。

図4 雲原地区の中心部に建つ「砂防記念碑」

 

いま、雲原地区の中心近くに「砂防記念碑」が建つ。事業が完了した1952(昭和27)年に西原の撰文により建てられたもので、砂防事業の着手に至るまでの経緯と事業に尽力した人の名を挙げて感謝を表明している。西原の生家の敷地に建つ「西原文庫」には、彼にまつわる文献類が収められている。

図5 西原の生家の敷地に建つ「西原文庫」(休暇中)

 

 

1) 赤木正雄については、「逆瀬川の砂防設備」の項を参照されたい。

2) 移転には多額の費用を要するので補助金が用意された。移転により新しい改良住宅に住むこととなり、改善された便所や台所は村人の生活を大きく変えた。

 

(参考文献)

  1. 雲原砂防とふるさとづくり委員会「雲原砂防と地域の暮らし」(京都府福知山土木事務所)
  2. 京都府砂防課「雲原川砂防事業の概要」
  3. 若月 剛史「昭和戦前期における砂防事業拡大の政治過程―帝国議会と技術官僚―」(「日本政治と自助・共助・公助」(研究双書 第179冊)所収)
  4. 谷岡 武雄「歴史地理学」(古今書院)

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