2025.12.4

技術というのは一方的に進化・発展するものではない。近代に入って鋼やコンクリートといった優れた土木材料が発明されるにつれ、従来の土木材料に付帯していた設計・建設技術の中には忘失されるものも出てきた。煉瓦構築技術もそのひとつだ。
わが国における煉瓦構造物は、江戸最末期から建設が始まり明治・大正期に隆盛を極めたが、その後 次第に減少した。煉瓦が主流だった時代は数十年に過ぎない。今回から3回にわたって煉瓦アーチ橋を題材にかつての煉瓦構築技術についてご紹介していきたい。
京都市営地下鉄東西線の蹴上駅から、琵琶湖疏水に設けられたインクラインの石積みに沿ってわずかに三条側に戻ったところに、ぽっかりと口をあけている煉瓦造りの通路がある。「ねじりまんぽ」だ。壁面が渦を巻くようにねじれて見えるのでこの名があるが、子細に見ると、これは煉瓦を水平でなく一定の角度でもって積み上げたためであることがわかる。
何事にも優れた先達がおられるもので、「わが国における鉄道用煉瓦構造物の技術史的研究」で学位を取られた小野田 滋氏が、土木学会の「土木史研究 第16号(1996年)」に全国の30ほどの「ねじりまんぽ」を紹介しておられる。その大部分は、明治初期に建設された関西の東海道本線に集中しているが、鉄道以外に利用された唯一の例が琵琶湖疏水のインクライン下にあるこのアーチ橋である。
煉瓦によるアーチ橋は、断面方向に並んだ煉瓦が上載荷重を圧縮力として橋台に伝達することにより成立する(図1)のであるが、盛土に対して斜めに設ける場合には、通常のアーチ橋のように水平に煉瓦を積んだのでは、端部ではこのようなアーチ作用が発現しない(図2)。これを克服するために煉瓦を傾けて積むという技法が考えられたのである。煉瓦の傾きは交差角に連動して決まる(交差角をα、アーチ内面の煉瓦の傾きをβとすると、tanβ=2cotα/πの関係が成立するそうだ)。この工法はかなり面倒な工事であり、鉄筋コンクリートの登場とともに新規に採用されることはなくなった。また、後世の改良工事で除却されたり改造されたりして、次第に数は減少していき、現存するねじりまんぽは明治の文化遺産として貴重なものとなっている。


この技法はルネッサンス時代のイタリアに遡るとされている1)が、外国人技術者によってわが国に伝えられたのはほぼ間違いなく、1874(明治7)年に開通した阪神間の鉄道における「安井橋りょう」(西ノ宮~さくら夙川間)、「東皿池橋りょう」(さくら夙川~芦屋間)及び「水仙上谷橋りょう」(現存せず)がわが国における初見である。これが76年に開通した京阪間では「第一寺西橋りょう」、「千本川橋りょう」、「八條川橋りょう」(いずれも現存せず)、「馬場丁川(ばばまちがわ)橋りょう」(西大路~桂川間)、「三重川橋りょう」(改築)、「円妙寺橋りょう」(長岡京~山崎間)、「奥田ノ端(おくでんのはた)橋りょう」(島本~高槻間)、「門ノ前橋りょう」(JR総持寺~茨木間)と8橋もあるのは、阪神間の鉄道建設現場で学んだ日本人が京阪間のねじりまんぽを建設したとも想像される。インクライン(1891(明治24)年に運行開始)のねじりまんぽにも鉄道建設に従事してこの技法を習得した技術者の参画があったかもしれない。もちろん、1883(明治16)年に工部大学校を卒業して疏水事業を指揮した田辺 朔郎も、鉄道での施工実績は見聞していたであろうし、1880年に翻訳刊行された「蘭均氏土木学(原題Manual of Civil Engineering)」において「斜歪穹㝫」として解説されているこの技法を学んでいたと思われる。

蘭均氏ことウィリアム・ランキン(William John Macquorn Rankine、1820~1872)は、グラスゴー大学にあって、土木工学の分野では「ランキン土圧」に名を残す鉄道技術者であるとともに、エネルギーの用語と概念を導入するなど熱力学の分野で顕著な功績を挙げた物理学者である。また、1871(明治4)年の遣欧米使節団3)の一員だった伊藤 博文の依頼を受けて、いわゆるお雇い外国人教師の派遣に尽力したことでも知られ、わが国にとって忘れられない人でもある。
このねじりまんぽは、疏水とその下の道路が地図上の計測で約75゚で交差しており、ここから計算される煉瓦の傾きは約10゚のはずであるが、現地での測定では14~18゚で理論値よりやや大きかった。




三条通りに面してトンネルの坑門のような構造物があり、「雄觀奇想」の扁額がかかる。見事な景観とその背後にあるすぐれた発想を讃えているのだろう。扁額の上下の笠石と帯石にデンティルが施されており、大いに装飾的である。南禅寺に向かう東側坑門の扁額は、かなり傷んでいるが「陽気発処」と読む。これは、「朱子語類」の一節「陽気発処 金石亦透 精神一到 何事不成」からの引用で、精神を集中すればどんなことでもできないことはない、という意味だ。いずれも京都府知事として琵琶湖疏水事業を推進した北垣 国道の揮毫である。

煉瓦の端面は、鋸状にならないように整形してある。入念な施工に職人の気概が感じられる。
令和7(2025)年5月16日に開かれた国の文化審議会において、琵琶湖疏水の諸施設を国宝・重要文化財に新たに指定することについて答申が出された。近代土木遺産として初めての指定だ。ねじりまんぽは、上を横断するインクラインとともに国宝に指定されている。
田辺 朔朗が見学したかもしれない大阪~京都間のねじりまんぽのうち、現存する4基を見ておこう。どれも個性的で、それぞれの目的にあわせて入念に設計されていたことが伺われる。明治の構造物の上を新快速電車が轟音とともに走り去るさまは、まるで時間軸もねじれてしまったかのような体験だった。
➀馬場丁川橋りょう(N:34°58’24”、E:135°43’00”)
京都市道久世梅津北野線(桂川街道)との交差部のやや東にある、1.5mほどの小さな橋梁。両側とも線増のためコンクリート製ボックスカルバートで継ぎ足されており、外部からはねじりまんぽとわからない。傍らの祠が目印である。2段の切石と2段の煉瓦から成る側壁から約18°のの角度でねじりまんぽが立ち上がる。人が接する機会がないためか、およそ150年もたっているとは思えないほど内部の煉瓦は美しい。

➁円妙寺橋りょう(N:34°54’20”、E:135°41’ 18”)
大山崎町役場から北へ300mほど進んだ西側にある。複々線化に際して上り線側が線増されており、ねじりまんぽの奥はコンクリート製のカルバートになっている。もとは水路が通っていたところを、人が通れるように一部にコンクリートを張ったものらしく、通路幅は約1.2m。高さは約1.4mで屈んで歩かないといけないくらい小さい。2段の石積みの上にねじりまんぽが構えられており、煉瓦の傾斜角は約22°。建設時には人に見られることを想定していなかったはずであるが、内部の造作はみごと。インバートに当たる水路底にも煉瓦が施工してあるのがこの橋梁の特徴である。この煉瓦は線路直角方向に配置されているため、通路からは斜めに配置されているように見える。



➂奥田ノ端橋りょう(N:34°51’48”、E:135°38’49”)
高槻東道路がJRを越えるすぐ東にある。このねじりまんぽは水路に蓋かけして人や車を通しているようだが、もともと水路幅が大きかったのと、路面から水平に積み上げた10段の煉瓦の上にねじりまんぽを構築しているため、軽自動車が通れるほど(W=約2.4m、H=約1.9m)の内部空間が確保されている。


➃門ノ前橋りょう(N:34°49’31”、E:135°34’19”)
茨木川跡の緑地の東側にある。下を走る道路はかつて茨木から丹波に向かう街道であり、このねじりまんぽは当初から跨道橋として建設された。幅員は3m近くある。2~3段の切石積みの上に16段の煉瓦を水平に積み、その上に鋸型に成型した迫受石を載せて、そこからねじりまんぽが始まる。道路空間は十分な高さがあり、その開放感は独特のものだ。一方、煉瓦の傾斜は約13°でねじれている感覚は少ない。複々線化に際してやや離れて線増されており、両側の坑口を見ることができるのも本橋の特徴である。地元ではこのねじりまんぽを「丸また」と呼んでいるようで、その説明板が掲げられている。



あわせて読みたい記事