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土木遺産㊳ 箱ヶ瀬橋

土木遺産㊳ 箱ヶ瀬橋

2023.4.21

オレンジ色の補剛トラスが九頭竜湖に映える箱ヶ瀬橋

 

九頭竜川は、岐阜県境の油阪峠に源を発し、大野盆地・福井平野を貫流して日本海に注ぐ、幹線流路延長116km、流域面積2,930km2の一級河川である。ここに設けられた九頭竜ダムは、洪水調整と発電の機能を持ったダムとして建設省(当時)と電源開発㈱が共同で建設したもので、堤高128m、堤体積6,300,000m3の土質遮水壁型ロックフィルダムである。これによる有効貯水量は223,000,000m3で、湛水面積は8.9km2に及ぶ。ダムの建設に伴い、530戸の民家、191haの農地、868haの森林が水没することになったが、加えて81kmの道路も付け替えが必要となった。この付け替え道路のひとつとして、国道158号と旧西谷村を結ぶ一般県道大谷秋生大野線に架けられたのが「箱ケ瀬橋」(昭和42(1967)年12月完成)であった。

箱ケ瀬橋は、橋長266m(29.00+205.20+29.00)、有効幅員4.15mを有し、側径間は単純合成版桁橋、中央径間は補剛トラスを有する吊橋である。電源開発が発注し、架設は宮地鉄工所、ケーブルは八幡製鉄による。本橋の特徴は吊橋のケーブルにある。それまでの吊橋は、37年に完成した若戸大橋(橋長627m、中央支間長367m)を含め、ワイヤを撚り合わせたロープケーブルが採用されていた。本橋のケーブルは、ワイヤを撚らない平行線ケーブル(Parallel Wire Strand(PWS))が採用されている。

 

この箱ケ瀬橋は、現地や周辺の案内板で「夢のかけはし」という愛称で呼ばれ、瀬戸大橋のプロトタイプとして建設されたと紹介されている。その根拠は、昭和42年から翌年にかけて福井新聞に掲載された一連の記事にあるとされる。例えば、建設省土木研究所構造研究室が本橋で振動実験を行うことを報道する43年7月4日付の記事では、「本州-四国“夢のかけ橋”の資料に」という見出しと、文中に「本州と四国を結ぶ夢のかけ橋にもこの平行線ケーブル工法を採用することが決まっており、箱ケ瀬橋(長さ260m、つり橋部分206m)はちょうど7分の1の大きさに当たる」という記述がある。実験を行ったメンバーがそのような説明をしたのであろう。260m及び206mの7倍といえば、昭和60年に完成した「大鳴門橋」(橋長1,629m、中央支間長876m)や63年に完成した「南備讃瀬戸大橋」(橋長1,648m、中央支間長1,100m)に相当するほどの大規模なものが、これらに先立つ20年ほど前のこの時期にすでに研究者の念頭にあったことになる。

この時期、本州四国連絡橋について建設省はどのような調査を行っており、それと箱ケ瀬橋はどのように関係するのだろうか。

図1 箱ヶ瀬橋の主塔と橋面

 

 

昭和30(1955)年5月11日、国鉄宇高連絡船「紫雲丸」が濃霧に覆われた瀬戸内海を航行中、同じ国鉄の貨物船と衝突して沈没し、修学旅行生ら168人が死亡するという大惨事が起きた。この事故をきっかけに、連絡船に頼るしかなかった本州と四国の間を橋梁で結ぶ要望が高まり、建設省が34年から調査を開始し、38年に近畿地方建設局に「本州四国連絡道路調査事務所」を開設して土木研究所と分担して調査を本格化させることになった。両機関は、地質調査や気象調査などをもとに本州四国連絡橋のルート比較を進める一方、長大吊橋に関する技術的検討を精力的に行った。その様子を参考文献をもとに振り返ってみよう。

吊橋の技術で特に着目されたのは、ケーブルである。調査が始まった頃の日本にはロープケーブルしかなかった。しかし、ワイヤを撚り合わせたロープケーブルは素線の強度がかなり減殺される。500m以上の支間をもつ吊橋では平行線ケーブルが必要だと言われていた。そこで、平行線ケーブルの架設をしていたアメリカのベラザノナロウズ(Verrazano Narrows)橋(中央支間長1,298m、1964年完成)に研究員を派遣して空中架線(エアスピニング(AS))工法1)を調査し、38年度からケーブルの仕様書を鋼線メーカーに示してワイヤの試作を行っている。さらに、40年度には、土木研究所千葉支所内に中央支間150mのASの実験施設を作り、近畿地方建設局の委託を受けて架設実験を行った。41年7月に八幡製鉄が神戸製鋼の協力を受けて同社相模原開発実験場にてAS架設実験を行い、これを踏まえて長野県小谷(おたり)村で林野庁長野営林局が行った「金谷(かなや)橋」(支間長148m、42年7月完成)において実橋として初めてAS工法が試みられた。本橋では、5mmのワイヤ432本で1本のケーブルを構成し、その直径は114mmであった。

しかし、この方法で長大吊橋を架けるには無理がある。というのは、長大吊橋には太いケーブルが必要になるが、あまりに多くのワイヤを束ねると、それを緊縛することが難しくなるからだ。そこで、ワイヤをいったんストランドという小束にして、それをさらに大束にまとめてケーブルにすることが考えられた。調査事務所ではこの工法を研究し、神戸製鋼が開発した装置を使って架設する実験を行っていた。金谷橋に続いてAS工法を取り入れた箱ヶ瀬橋では、この工法が採用され、ワイヤ168本を束ねてストランドとし、ストランド4本で1本のケーブルにしている。ケーブルの直径は143mmであった。

図2 淡路サービスエリアに展示されている明石海峡大橋のケーブルの模型、着色されているのがストランド

 

AS工法は、細い素線を扱うので、設備が小規模ですむ利点はあったが、風が強くなると施工できないと言う欠点があった。また、施工の巧拙による品質のばらつきの懸念があった。これに対処するため、あらかじめ工場で作ったストランドを架設するプレハブストランド(PS)工法がベツレヘムスティール(Bethlehem Steel)社で考案された。わが国においては、41年6月に本州四国連絡道路調査事務所の発注で神戸製鋼がPSを製作し、42年8月に八幡製鉄が架設実験を行っている。実橋においては、アメリカのニューポート(New Port)橋(中央支間長488m、1969年完成)の実見を経て、群馬県と埼玉県にまたがる下久保ダムの付替え道路である「金毘羅橋」(支間長175m、43年3月完成)や奈良県高山ダムの付替え道路である「八幡橋」(支間長160m、43年12月完成)で実用化された。これでわが国はASとPSの2種の工法を手に入れたことになる。このPS工法は、本州四国連絡橋に至る一里塚と目されていた「関門橋」(橋長1,068m、中央支間長712m、48年11月完成)の建設で本格的に採用された。

 

以上のように、わが国の吊橋技術は、本州四国連絡橋という明確な目標に向かって、官民の緊密な連携のもとに、さまざまな実験的施工による経験を体系的に積み重ねることにより、急速に発展してきたと言える。その到達点が、世界最長を誇った明石海峡大橋(橋長3,911m、中央支間長1,991m、平成10(1998)年4月完成)だ。

現代の吊橋は、ストランドを束ねてケーブルにしている。一連の技術開発の歴史における箱ケ瀬橋の位置づけは、わが国で初めてストランドを導入した吊橋ということだ。本州四国連絡橋の実現に至る不可欠なステップであったといえよう。

なお、箱ケ瀬橋以降の吊橋ではPS工法が採用されることが多く、箱ケ瀬橋の研究者が目標とした瀬戸大橋の橋梁群の中では、「下津井瀬戸大橋」(橋長1,400m、中央支間長940m、63年4月完成)で、アンカレッジが小さくできるという理由でAS工法が採用されている。

 

(参考文献) 相良 正次「平行線ケーブルの歩み」(日本道路協会「道路」1968年11月号所収)

 

1)糸巻から糸を繰り出すように直径5mm程度のワイヤを1本ずつ引き出し、これを空中足場(キャットウォーク)上を移動する運搬キャリアで対岸まで引き延ばし、アンカレッジに固定されたシューに巻き付けていくという作業を繰り返してケーブルを作る工法。

 

筆者:坂下 泰幸

 

 

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