2026.2.16

現在の九度山町は柿を中心とする農業が主体であるが、かつては九度山町にもさまざまな産業を興そうという動きがあった。中でも、野口 巳之助と小澤 由三郎は、急速に発展を見つつあった電力による紡績業に目をつけ、丹生川の急流を利用して発電しその電力で紡績工場を作れば郷土に就労機会を作れるのではないかと考えた。1896(明治29)年に堰堤を築く許可と紡績会社設立の許可を受けたが、事業は思うように進まず5年で断念せねばならなかった。この失敗を残念に思った野口は、1907(明治40)年に再び丹生川の水利使用の許可を受け、こんどは岸和田の寺田 元吉1)の協力を得て「和泉水力電気株式会社」を起こして事業を始めた。赤瀬橋のやや上流で取水し、水路で九度山まで導き、発電所を現在の九度山幼稚園近くの川沿いに設けた。工事は大阪の入江組が請負い、11年4月に竣工した。九度山地区に電灯をつけさらに余剰の電力は山を越えて岸和田に送った。
事業は1917(大正6)年に「南海鉄道」(現在の南海電鉄)に譲渡され、引き続き地域の暮らしに役立ってきた。しかし、1953(昭和28)年の大水害で施設が流出し、再建できないまま幕を閉じた。
その遺物は町内のところどころに今も残るが、注目すべきは九度山駅から国道370号を900m余り南下したところにある水路橋だ。太利(ふとり)池から流れ出る小さな川とそれに沿う里道と約80度の角度で交差している。
通常、煉瓦で斜橋を作る時は煉瓦を斜めに積む「ねじりまんぽ」という技法を用いることはすでに紹介した。アーチの内部に入ると渦を巻いているように感じるのでこの名がある。ところが、本橋のアーチ部は、いわば幅の狭い直橋を少しずつずらして配置することにより斜めに交差しているのである。よって、煉瓦は水平に積まれている。極めて特異な橋梁である。煉瓦のサイズは厚さ約6cm、長手約22.5cm、小口約10.5cmであった。


この構造は、明治時代の土木工学の教科書である「蘭均氏土木学」において、ねじりまんぽに当たる「斜歪穹㝫」と並んで「有肋斜歪穹㝫」として紹介されている。が、構造的には目地が縦につながる「芋目地」が一定間隔で必ずできてしまい、これが弱点となるためねじりまんぽほど優れているとは言い難い。施工面でも、アーチ部の壁面がずれる都度 支保工も動かさないといけないため、優位性はなかったと考えられる。



水路橋の天端に上がると、コンクリート張りの水路があった。コンクリートは漏水を防止するために後年に追加施工されたものと思われる。当該箇所にはコンクリートの壁があって、土砂を堆積させていたようだ。また、スリットの入った煉瓦の壁は、ここに差し込む板の高さを変えて発電所に送る水量を調整していたように見受けられた。煉瓦にはXやYの刻印があった。Xは岸和田煉瓦2)の製造であることを示すものと考えられる。
(参考文献)
1)寺田 元吉(1855(安政2)~1931(昭和6)年)は、江戸時代から続く酒造家の寺田家に生まれ、1874(明治7)年に分家して清酒醸造業を継承するとともに、関西製綱(1912(明治45)年)、東洋麻糸紡織(1915(大正4)年)の設立に大株主として参加し、1920(大正9)年には佐野紡績を株式会社に改組して家業とした。本稿に出てくる和泉水力電気のほか、五十一銀行、泉州織物の経営にも当たっている。実兄 甚与茂(じんよも)、異父弟 利吉とともに寺田財閥を構成し、岸和田の近代化を牽引した。
2)岸和田煉瓦は、元岸和田藩士である山岡 尹方(ただかた)が1887(明治20)年に設立したものであるが、その前身は士族授産事業として始められた煉瓦製造会社で1872(明治5)年の設立と非常に古く、日本の煉瓦産業の先駆的事業として注目される。共同出資者のひとりに寺田 甚与茂がいる。製品にXの刻印が多いのは山岡がキリスト教信者であったからというのが通説である。なお、岸和田の臨海部には大阪窯業の煉瓦工場もあり、煉瓦の一大産地だった。
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