2026.3.17
小田井用水

橋本駅を出た南海高野線の電車が学文路(かむろ)駅にさしかかる頃、紀ノ川の対岸に長大な河岸段丘が連なっているのが望見できる。その河岸段丘には紀泉山脈に発する短小な河川が流れているが、段丘面よりかなり低いところにあるために農地として利用できなかった。古くは文覚(もんがく)(保延5(1139)~建仁3(1203)年)が桛田(かせた)荘(現在のかつらぎ町笠田(かせた))に紀ノ川支流静川から導水した「文覚井(ゆ)」を拓き、16世紀末には木食上人と呼ばれた応其(おうご)(天文5(1536)~慶長13(1608)年)が多くの灌漑用ため池を築造した。しかし、これらの高僧による水利開発にもかかわらず、月の夜でも土地が乾いてしまうという意味で「月夜にやける」と言われるほど、農業用水の不足が顕著であった。
その地を潤す「小田井用水」を開鑿した大畑 才蔵は、寛永19(1642)年にここ学文路村の農家に生まれた。江戸時代の学文路村は、高野山に参詣する「京大坂道」の登り口に当たっており、たいへんな賑わいを見せていた。京・大坂・堺などの文化や学問に接する機会にも恵まれていたと思われ、当時の算術の教科書であった「格致算書」や「因帰算歌」を入手して学ぶことができた。幼少時より非凡で知られ、18歳で大庄屋の補佐役である「杖突」に任じられ、46歳で父の後を継いで庄屋となった。紀州藩2代目藩主徳川 光貞は、農業を盛んにして藩の財政を立て直すため、農村の有能な者を役人に登用する制度を創始したが、才蔵は元禄9(1696)年に井澤 弥惣兵衛(やそべえ)1)(承応3(1654)~元文3(1738)年)の推挙で「地方(じかた)手代」に取り立てられて、新田開発や洪水対策の企画に携わるよう命じられた。
それまで例を見なかった紀ノ川本流からの取水を計画し、12年9月に現在の紀の川市藤崎から和歌山市山口まで約23.5kmの灌漑用水工事に着手した。「藤崎井(い)用水」である。翌年2月に完成し、水量の豊かな紀ノ川から引いた用水は、畑地約1,000町歩(約1ha)を水田に変えて紀州藩の財政に貢献した。この成功を踏まえて彼が次に命じられたのは、より水利の悪い地域の潅漑である。これが小田井用水だ。
小田井用水の開削は宝永4(1707)年、才蔵67歳の時に始まった。かねてから構想を持っていた才蔵は、拝命して直ちに着工し、彼が持っていた優れた技術をこの事業に注ぎ込んだ。取水点は、藤崎井より約30m高い(H=66.3m)橋本市高野口町小田に定め、藤崎井用水よりさらに緩勾配の平均1/1,500の水路で西に流した。途中で横断する小河川とは、藤崎井よりもさらに複雑な地形での交会を強いられた。
才蔵は、この事業を3期に分けて施工した。第1期は、起点から紀の川市名手市場までの約21kmで、約10万人を投入する難工事であったが1年8か月を要して翌年12月に完成させた(途中、宝永地震(宝永4年10月4日)があり、一時工事を中断している)。第2期は宝永6年1月から7月に行われ、紀の川市打田まで約5kmを施工した。続いて宝永7年から第3期の工事にとりかかり、最終的に完成した水路は起点から終点の岩出市根来まで総延長32.5kmに達した。小田井用水は1,46町歩(約1,035ha)の水田を新たに拓き、現在もこの地域を潤している。
用水の開削に当たって、才蔵は数理的知識を活用した正確な測量を行った。水準測量には「水盛台(みずもりだい)」という自作の測量器具を使用した。これは、彼が元禄10年に発明したもので、その仕組みは図1のとおりだ。この装置により最小3,030分の1という驚異的な緩勾配を実現した。
もうひとつは入念な施工計画だ。測量に基づいて60間(約109m)を基本に工区に分割する「丁場割」を行い、丁場ごとに水路の高さと幅を定め施設の種類・位置を明示し、資材量や土工量を算定するとともに一人一日当たりの施工量を設定して必要人足数を割り出した。現在の工事計画における設計書と同じものを作ったことになる。これを「普請方覚書」と総称される帳簿に記録し、各丁場の責任者に周知させることにより、才蔵がいなくても施工できる体制を作った。各丁場が並行して作業できるようになり工期短縮が図られた。
用水が中小の河川を横断する箇所では、河川と用水の水位により、河川の下をサイホンでくぐる「伏越(ふせごし)」または水路橋である「渡井(とい)」により横断した。

才蔵が開いた用水路は、その後、時代とともに災害復旧や改良が行われて今も使われ続けている。主要な構造物について、その姿を順に見ていこう。


まず向かうのは「小田頭首工」(図2①、N:34˚17’49”、E:135˚33’53”)だ。小田井用水が開設されてから約220年は石や木材を組み合わせた流されやすい堰だったが、大正15(1926)年にコンクリート製のものに替えた。しかし、昭和28(1953)年の大洪水で流失し、その災害復旧として32年にできたのが現在のものだ。その後、災害復旧やゲート等の更新、魚道・護床工・取水施設等の改修を経て現在に至っている。その規模は、堤高2.8m、堤長221.4m(固定部153.8m、可動部67.6m)。径間20mのゲートが3門ある。
頭首工から始まる水路は、両岸の市街化が進んでいることから、しばらく暗渠化されている。一部は「せせらぎ公園」(②)として利用されている。
開水路になった小田井用水が中谷川と交差する箇所にあるのが「中谷川水門」(③、N:34˚18’12”、E:135˚32’4”)だ。双方の水位差が小さく小田井用水が川の下をサイホンで横断している。当初の施設は木製であったが、現在の施設は昭和45(1970)年に整備された煉瓦造り。延長13.3m、水路幅6.4mである。
次に訪れるのは「小庭谷川渡井」(④、N:34˚17’31”、E:135˚28’32”)だ。煉瓦造りの充腹アーチ橋で、橋長9.3m、幅員7.4m。アーチは煉瓦4枚で構成され、スパンドレルがフランス積みであるのが特徴である。
木製であった当初の施設は大雨による被害を受けることが多く、明治42(1909)年に煉瓦造りに改修された。小田井用水の施設近代化のプロセスで最初期に改修されたものである。
小庭谷川渡井からさらに西に進むと水路は「背ノ山隧道」(⑤、N:34˚17’11”、E:135˚27’27”))に吸い込まれていく。「紀水悠々」の扁額がある。才蔵が掘った水路は、ここから背ノ山の南麓を迂回していたのだが、勾配が小さくて流れにくかったようだ。昭和40(1965)年にこのトンネルに切り替えた。これにより従来の水路は当初の機能を失ったが、これがもとの小田井用水であったことを記憶するため、45年に「才蔵掘跡」の碑(イ、N:34˚16’52”、E:135˚27’22”)が建てられた。
背ノ山隧道の吐口には「水徳無盡」の扁額が架かる。この近くに「龍之渡井」(⑥、N:34˚16’59”、E:135˚26’54”)がある。穴伏川に架かる橋長21m、幅員5.3mのアーチ橋で、アーチ部が煉瓦でスパンドレルには石も用いている。大正8(1919)年に図3のような木橋を改修した。この渡井のアーチは他にはない顕著な特徴を有しているので、後述する。
最後に紹介するのは「木積川(こづみがわ)渡井」(⑦、N:34˚16’22”、135˚20’05”)だ。橋長6.0m、幅員3.8mの煉瓦造りアーチ橋である。大正3(1914)年の改修による。草に覆われて見づらいが、天端付近に長方形の煉瓦を凹凸をつけて並べた「歯飾り」(デンティル)と煉瓦の角を見せる「蛇腹」という装飾を施す入念なつくりである。
以上、取り上げた構造物のうち、中谷川水門、小庭谷川渡井、龍之渡井、木積川渡井の4つは、平成18(2006)年に登録有形文化財になっている。また、29(2017)年には小田井用水が世界かんがい施設遺産に登録された。



最後に、龍之渡井の特異な構造について述べておく。
まず気づくのは、アーチ部の煉瓦の枚数である。装飾のために凹凸がついているが、7層の煉瓦で構成されている。この規模の橋梁としては極めて多い。
もう一つの特徴は、左岸側の側壁に少しずつ段差がついていることである。右岸側にはこのような段差がないことから、本橋は、煉瓦の長手方向の寸法(約21cm)の幅員を有しつつ下流に行くにつれて段々と径間長が大きくなる橋が並列したものである、と捉えることができる。川幅の変化に対応したのであろうが、芋目地がたくさんできて強度の点で不利であるとともに、煉瓦を組む時の支保工(セントル)をそれぞれに作らなければいけないからたいへんにめんどうな施工を要する。非常に珍しい事例である。
(参考文献) 小田井用水(http://odaiyousui.com/)
1)紀伊国那賀郡溝ノ口村(和歌山県海南市野上新)の豪農の出身で、元禄3(1690)年に紀州徳川藩2代目藩主の徳川 光貞に召し出されて藩の勘定方に就任し、紀ノ川流域の新田開発を行った。その後、享保7(1722)年に将軍となった徳川 吉宗の命により、見沼の干拓、見沼代用水の開削、多摩川の改修、手賀沼の新田開発などを手がけた。幕臣としても、享保16(1731)年に勘定吟味役、20年に美濃郡代に就任している。
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