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土木遺産 第53回 旧大阪鉄道亀瀬(かめのせ)隧道

土木遺産 第53回 旧大阪鉄道亀瀬(かめのせ)隧道

2024.11.15

偶然に発見されて保存されている旧大阪鉄道亀瀬隧道

 

奈良県に源を発する大和川は、三郷(さんごう)町から生駒山系と金剛山系にはさまれた亀の瀬と呼ばれる狭隘な谷を流れて大阪府柏原市に至る。この区間では、古代より大和川右岸に「龍田道」が通じており、交通路として重要であった。現在は、左岸を国道25号が走り、JR大和路線は右岸から左岸に渡り再び右岸に戻るという線形になっている。しかし、鉄道が建設された当時は、ずっと右岸を走っていたのだ(図1)。

 

これを建設したのは、湊町(現在のJR難波)と奈良・桜井を結ぶ免許を受けた大阪鉄道という会社。第1期工事である湊町~柏原間は1889(明治22)年に開通したが、その先には亀の瀬越えの難所が待ちかまえていた。同社はとりあえず亀の瀬の手前に「亀瀬」仮駅を設置(90年9月)、12月に奈良~王寺間が開通すると亀瀬と王寺の間を人力車で連絡した。亀の瀬に掘ったトンネルは完成までこぎ着けたものの、異常な土圧のために煉瓦の覆工にひびが入っており、崩壊の危険があるとして当局から客車の通過の許可が下りなかった。そこで同社は亀の瀬の東に「稲葉山」仮駅を設け(91年2月)、亀瀬~稲葉山間を人力車で結んだ。この変則的な営業の解消のために、同社はトンネル改築の許可を受けて亀瀬隧道(L=431.1m)を92年2月に供用開始。湊町~奈良間41.2kmが鉄道で結ばれた。なお、同社は1900年に関西鉄道に併合された後、07年に国有化されている。

図1 建設当時の亀瀬隧道(明治31年修正測量の国土地理院旧版地図)

図2 現在の亀の瀬付近の鉄道

 

1924(大正13) 年には輸送力増強のために複線化され、亀の瀬に新たなトンネルが掘られ(L=703.4m)、奈良方面行きの上り線として使用された。この時に、従前のトンネルも東に延長して線形が改良され延長を703.5mとし、大阪方面行きの下り線として使用されるようになった。

 

亀瀬隧道の施工が困難だったのはここが地すべりで乱れた地山であったからなのだが、地質調査が未熟であった当時はこれを把握することがむつかしかった。そしてついに変状が現れる時が来る。1931(昭和6)年9月、トンネル上部に当たる峠地区でため池が枯渇したのに続いて、11月には地表に亀裂が発見されたのだ。この亀裂は次第に拡大し、ついには峠地区を中心にして山塊が大規模にすべるに至った(32年1月7日)。トンネル内部に亀裂が確認され、レールの湾曲や路盤の隆起が認められたため、1月23日から亀瀬隧道の下り線が使用停止となって上り線だけの単線運転に。2月1日からは上り線も閉鎖され、トンネルの坑口に仮設された「亀瀬西口」、「亀瀬東口」両駅間を峠越えで徒歩連絡することとされた。そして4日には西口の坑門が断裂・圧壊して坑口が閉塞し、7日からはトンネル内部でも断続的な崩壊が生じた。

 

地すべりは峠地区の32haに及び、最大累計移動量は水平方向に53m、沈下量は13.54mを測った。この地すべりは奈良県側で深刻に受け止められた。大和川の河床は9m以上も隆起し、水が堰き止められてこのままでは奈良盆地が水没するのではないかという恐怖が住民を襲ったのである。事実、7月には地すべり地の上流で住宅25戸が浸水するという被害が生じた。災害復旧工事は2月から開始されていたが、3月からは内務省の直轄工事に切替えられた。のべ35万人を動員して道路の復旧や河川を掘削・拡幅して流量を確保する工事を行った。こうした被害の一方で、地すべり災害の見学者が多い時には1日2万人も訪れ、亀瀬までの貸切列車が走り、徒歩連絡道にはカフェーなどの露天商が出店、見学記念絵はがきも発行された(http://www.town.oji.nara.jp/history/train4.html#timeTable)。

図3 坑門が圧壊し路盤が隆起した亀瀬隧道西坑口(地すべり資料館の展示資料による)

 

鉄道の分断を解消するため、内務省による復旧工事が開始されたのは4月27日。亀瀬隧道を修復することは不可能なので、付替えルートが検討された。種々の比較を行った結果、不安定な右岸側をさけて左岸に迂回させることが6月に決定、明神山の山腹に3本のトンネルと、大和川を渡る2本の橋梁の工事が開始された。新年の伊勢神宮参拝客輸送に間に合わせることを目標として突貫工事が続けられ、とりあえず単線ではあったが12月31日に開通することができた(複線開業は3年後)。

 

地すべりの影響を避けつつ大和川の流れを阻害しないように付替える必要があったため、大和川を渡る橋梁はおもしろい構造をしている。まず、亀の瀬の西にある第四大和川橋りょうは、河川に対して約30度という浅い角度で横断し大阪寄りには半径400mのカーブが入った、橋長L=233mの12径間の版桁橋になっている。大和川の中央に橋脚を建てることができなかったようで、川をまたぐトラス桁や別の版桁で主桁を受けているのが珍しい。また、三郷駅に近い第三大和川橋りょうは、現在は2連のトラスがあるが、上弦が曲線を描いている左岸側の方が当初からあったもの。大和川に対して約55度の角度で渡っているが、ここでも河川条件は厳しかったようで、橋台や橋脚は川の流れに沿って建っている。そのため、トラスの平面形が平行四辺形になっていて、端斜材が片側にしかないのがおもしろい(この形式をトランケートトラスという)。なお、両橋は2019年度に選奨土木遺産に認定されている。

図4 浅い角度で大和川を渡る第四大和川橋梁、川岸に橋脚が設置されたトラス桁や版桁により主桁が支持されている

図5 大和川を斜めに渡るため端斜材が片方にしかない第三大和川橋梁

 

ところで、亀の瀬で地すべりが多発する理由については、ボーリングや調査坑での種々の情報を総括し、今では概ね解明されつつある。当地の地層は、花崗岩類を基盤にして、その上に二上層群と総称される火山由来の溶岩・火砕岩と礫岩・砂岩が重なっているが、そのうち、数百万年前に亀の瀬の北方にあって2回にわたって噴火したドロコロ火山の溶岩が厚くて重いため、2層の溶岩の下の地層がそれぞれ粘土化し、そこに地下水が供給されて、溶岩層が低い方に向かって滑動しているということのようだ。

図6 亀の瀬付近の層序

 

そこで、地すべり対策工事としては、滑動する土を取り除く排土工、地すべりそのものを物理的に止める抑止工と併せて、地下水を排除することにより地すべりを起こしにくくする排水工が採用される。

図7 地すべり資料館の駐車場にある深礎工の頂部、背後の建物が地すべり資料館
図8 上から見た集水井、集水ボーリングから集水井に集められた水が排水トンネルを経て大和川に放流される

 

亀の瀬は、1959(昭和34)年に地すべり防止区域に指定、62年度からは国の直轄事業として大規模な対策事業が進められている。まず排土工としては、清水谷地区を中心に93.5万m3の土塊を除去した。抑止工としては、560本にのぼる鋼管杭の設置が進められ、さらに、通常の杭では対処できない箇所に直径3.5~6.5m、長さ30~96mという世界最大級の鉄筋コンクリート製の深礎工が170基 施工された。 排水工としては、地表排水路2,772mを整備して地下水の浸透を減じ、横ボーリング7,572m、集水井54基、排水トンネル7,240mにより地下水を排出する工法が採用されている。これらの対策の結果、亀の瀬での土塊移動はほとんどなくなり、2011(平成23)年3月をもって主要な事業は完了した。

図9 旧大阪鉄道亀瀬隧道へは排水トンネルから入る

 

本稿で紹介するトンネルは2008年11月、排水トンネルの施工中に見つかったもの。明治時代に掘られた下り線66m(高さ4.6m、幅4.3m)と大正時代に掘られた上り線49m(高さ5.5m、幅4.1m)が確認された。地すべりで崩壊したと思われていただけに、「幻のトンネル」の発見は驚きだった。このうち、排水トンネルから離れた下り線は、近畿地方整備局大和川工事事務所と柏原市教育委員会が協力して保存・公開している。側壁部がイギリス積み、上半部は長手積みという、明治期の煉瓦造りのトンネルの典型的な様式を有していた。

 

(参考文献) 小野田 滋「亀の瀬地すべりと関西本線(上)」((一財)交通統計研究所「交通と統計」2022年1月(通巻66号)所収)

 

 

 

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