2024.12.13
世界文化遺産に登録(2004(平成16)年)されて観光客を集めている高野山。中国から真言密教をもたらした弘法大師 空海が弘仁7(816)年に開山し、爾来、天皇や顕官から一般の民衆に至るまで数えきれない参詣者が高野山に登った。
大師は高野山への参詣のために道標として木製の卒塔婆を建てたそうだが、これは朽ちやすかったので鎌倉時代に町石(ちょういし)に取り換えられた。九度山町の慈尊院から大門まで高さ3.3mの町石が1丁(約109m)ごとに180基が連なる。町石道と呼ばれるこの参詣道は全体として緩やかで歩きやすく、現在でもハイキングコースとして親しまれる。
高野山への参詣道は時代とともに変わった。江戸時代になると、学文路(かむろ)を起点に河根(かね)・西郷(にしごう)を経て極楽橋から不動坂を上る京大阪道が拓かれる。起伏はあるが町石道(約22km)より4kmほど短かったので高野山への参詣客は多くがこちらを利用するようになった。その賑わいは、丹生川を渡るところにある河根では、料理屋・腰掛茶屋(通行人を休ませる簡単な作りの茶屋)・馬や駕籠の人夫の帳場(詰所)が立ち並び、朝から三味線や太鼓の音が聞こえるほどだったという。また、江戸時代には紀ノ川の水運が発達し、九度山から山越えして赤瀬(あかぜ)で丹生川を渡り、刈萱堂を経て神谷(かみや)で京大阪道に合流する長坂道の利用度も増していった。神谷も大いに賑わい、茶屋や旅籠はもとより芝居小屋まで出たという。
これらの参詣道がおおむね山伝いに高野山に達していたのに対し、本稿で取り上げる高野山森林軌道は不動谷川に沿って敷設されており、ルート選定の方針が全く異なっている。その理由は木材搬出の特性にある。
高野山の山林はもともとは金剛峰寺の寺領であり、そこから得られる林産物に係る収入は寺の維持に当てられていた。ところが1873(明治6)年、明治政府は「社寺上地」の命を発し、高野山においては金剛峰寺を囲む稜線の外側の山林を国有林としたのである。国は数百年にわたって禁伐であった山林の開発を試み、87年、材木商ら3名に大門付近の山林を払い下げた。3名が木材の搬出を行った方法は、「シ
ュラ落し」(丸太を敷き並べた上を木材を滑らせる)で不動谷川に落し、沿線の村と「川道明け」(期間を限って搬送のために川を利用する)の契約を結んで「管流し」(一時的に川を堰止めて木材を浮かせ、堰を切ることにより鉄砲水とともに一挙に押し流す)と呼ばれる方法で椎出に設けた土場(どば、木材を陸揚げする所または一時的に集積する所)まで流し、そこからは「木馬道(きんまみち)」で安田島(あんだじま)の土場に運ぶというものだった。木馬とは、50cmほどの間隔に並べた丸太の上を人力または馬力で木材を引き下ろす作業のこと。管流しは季節的制約を受けるほか木材の流失や水難の危険があったので、88年に木馬道を細川まで延伸している。そして、木材の運搬事業が終わった97年に、これらの木馬道は公道に寄付された。
国では、国有林の経営を本格化させるため、1905年から「官行斫伐(しゃくばつ)」(直営で生産事業を行うこと)を開始した。伐採した木材は長坂道を経て椎出の土場まで木馬を曳き、そこからは、効率的に運搬するために、安田島の土場まで過日 公道化されたもとの木馬道(雨の森を経由するので雨の森街道と呼ばれた)に沿って延長 約3.3kmの軌道(軌間762mm)を敷設した。わが国で最初の森林軌道である。ところが、1901年に紀和鉄道(現在のJR和歌山線、1900年11月に五條~和歌山間全通)に高野口駅(開設時の名称は名倉駅)がオープンしており、高野山の参詣客は、椎出まで平坦な雨の森街道を通るようになっていた1)。しかも、当初は悪路であったこの街道は、参詣客の利便のために赤瀬の丹生川渡河部(02年)と駅との間の紀ノ川(03年)にそれぞれ賃取橋が架けられ、その収益でもって道路の改修が進められて、九度山から雨の森・椎出・長坂・神谷を経て女人堂に至る道が「高野街道」と呼ばれるほどのメインルートになっていたのである。森林軌道は、トロリーに木材を積んで搭乗した人が勾配に応じて制動したり押したりするもので(小型であったので「豆トロ」と呼ばれた)、参詣の団体客や人力車と遭遇する時は危険を避けるために小型のラッパを吹いて運行したという。ところが、この軌道は早くも08年に撤去が始まる。対岸に新たな軌道を敷設するためだ。
思うに、高野街道を利用して木馬と軌道で運搬するというのは無理があったのではなかろうか。参詣者との輻輳のほか、重量物である木材を山越えで運ぶのも土場で積み替えるのも負担が大きい。シュラ落しや管流しのような危険な方法は採れないとしても、やはり自重で降下するような運搬方法がよいだろう。こうして選ばれた新たな軌道のルートは、不動谷川を遡って高野山に達するものだったのである。
1909(明治42)年、九度山の入郷(にゅうごう)に開設された貯木場に木材を運ぶための森林軌道が開通した。この軌道は、椎出の南で不動谷川の右岸に渡ってから川沿いにうねうねと曲がりながら高野山の塵無(ちりなし)土場までの26.0km。高度を稼ぐために、極楽橋と神谷の間で大きなヘアピンカーブを描いている2)。木材を積んだトロリーを人力で降下し空車は牛で引上げていた期間が長く続いたが、1928(昭和3)年に米国ホイットコム社製のガソリン機関車を3両購入し、一部区間に導入した(翌年2両を追加。31年からはガソリンが軍用となり燃料を木炭ガスに転換)。ここにおいて、木材輸送は、人力でコントロールしつつ重力により降下させる段階から動力車で運搬する段階に進化し、作業の安全性が大きく高まった。ようやく近代産業に脱皮できたと言えようか。
高野山森林軌道は、九度山貯木場~塵無土場間を幹線として、ここから枝分かれした支線がたくさん伸びていた。森林軌道の常として伐採の進捗によって頻繁に敷設・付替え・廃止されるので、支線の全貌をとらえるのは困難だが、特に大規模なのは32年に建設された花坂線。細川で分岐して南西に走り、トンネルで鳴戸(なるこ)川の流域に達し、これを上流に登ってその延長線はトンネルで内子谷(ないごだに)川の流域に伸びる。また、塵無土場の西で分岐して南東に走り、弘法大師廟への参詣道をくぐって御殿(おど)川の流域に入り、さらにトンネルで一ノ枝川の流域に達する別所谷線も大規模だ。これらの支線により、高野山をほぼ全周する軌道網ができあがる。森林軌道で搬出された木材は九度山貯木場で販売された。1943(昭和18)~44年で年間約2.5万m3に及んだという。
戦後復旧の需要増大の中で、53年1月に「森林鉄道保安規定」が発出され、組織・職員の配置・閉塞方式・運転速度など安全運行に必要な事項が定められた。同年12月に発出された「森林鉄道建設規定」では、最小半径・限度勾配・軌条の太さ・道床の厚さ等が細かく規定された。これらにより、森林鉄道は一般の鉄道に準じた制度が確立し、運材の主役として全盛期を迎える。
しかし、まもなく森林鉄道は自動車輸送に置き換えられていく。その転換点と言えるのが59年に制定された「国有林林道合理化要綱」であって、そこでは、高度経済成長に伴う木材輸送の増大に対応するため、今後 建設する林道は自動車道とすること、既設の森林鉄道は原則として自動車道に改良することが示されていた。高野山においては一足早く58年に細川土場より上が自動車道に改修されている。翌59年には、日本道路公団が建設した高野山道路3)を使って全線が自動車輸送になった。
使われなくなった鉄道用地は九度山町と高野町に譲与された。その現在の姿はさまざまだ。下から順に見ていこう。
高野山の木材を集積・販売した九度山貯木場の跡地は、道の駅になっている。そこから南に続く部分は落石のため通行止めになっているため、県道和歌山橋本線の役場前交差点を南に折れて廃線敷きに入る。ほどなく人家が途切れ、丹生川に沿って山裾を切り開いた幅員1.8m程度の遊歩道に変わる。町では「龍王渓」と名付けている。南海高野線の丹生川橋梁4)が見えればまもなく高野下駅に着く。駅舎が道路をまたいでいるのは、もとはこの道路が軌道だったから。かつては高野索道5)の始点が隣接しており、駅には貨物用ホームもあったという。
高野線をくぐってその先も廃線敷きが続く。川が大きく蛇行しているが、軌道跡もこれに沿いつつ3度渡河して最後の「牛頭(うしかみ)橋」のところで国道に出会う。いったん国道に吸収された廃線敷きは160mほど先で左に分かれるのだが、そこは通れないので交通に注意して国道を進むと、下古沢消防団器具庫の付近の2箇所でコンクリート製の橋脚と橋桁が残っているのを望むことができる(①)。
下古沢交差点から左に坂道を上る。四差路の右側の家宅の住人によると、この家のすぐ前を森林軌道が通っていたと言うことで、四差路を右折して道路に転用された廃線敷きを進む。これを地元では「トロッコ道」と呼んでいるようだ。二輪車で移動するときに国道を避けてこの道を通ることがあるという。すぐにトンネルがある(②左)。幅が約2.2mで高さは天頂で約3.6m。10分ほど歩くと直進する道は失われているので、道標に従って急坂を下り迂回して川を渡りまた登り返す。そのままゆるやかなトロッコ道を進み、コンクリート製の渕ノ上橋で右にカーブしさらに進むとまたトンネルだ(②右)。内部はコンクリートで覆工されているが、もとは素掘りであったと思われる。やがて勾配が顕著になってきたところで大きく左に回り込めば上古沢駅である。この先の廃線敷きは、生活道路としての役割もなく荒れている。探索は危険だ。よって、上古沢駅から電車に乗り紀伊細川駅を目指す。
細川には土場があったが、今は住宅に変わっている。ここから塵無土場までは、営林署によって自動車道に改修されてから町に引き継がれている区間だ。新極楽橋で不動谷川を渡り(この先ではかつての森林軌道の橋脚が撤去されないまま残っている)、河谷の崖懸を神谷に向かって登っていく。改修に際して自動車の規格に合うように線形改良や構造変更がなされたようで、道路からはずれたところに森林軌道の橋台などが残っている個所がある。やがて林道は2車線に拡幅され、幹線の終点であった塵無土場の跡(高野町森林センター)につながる。
塵無土場の手前から南東に伸びる支線の跡は霊園に続く2車線道路になっているが、中の橋付近では弘法大師廟への参道を盛土にして森林鉄道と立体交差していた痕跡を見ることができる。その先、御殿川から別所谷川に沿う箇所は一部の廃線敷きが残っているだけだが、円通寺の南にはトンネルの坑口を確認することができる。
塵無土場の先に続く支線の跡も林道は2車線化が進められている。しかし、黒河(くろこ)峠に向かう支線にはまだ森林軌道のレールが残っていた。そのサイズは頭部幅が約25mm、底部幅が約56mm、高さが約50mmで、6kgレール6)と呼ばれる最も細いもの。支線だからかも知れないが、高野森林軌道はたいそう簡素なものであったことが伺われる。
紀伊細川駅に戻ってこんどは花坂線の跡を辿ってみよう。駅から西に坂道を下り、不動谷川を南に渡る。1時間足らずの徒歩で花坂隧道に着く(➂)。幅、高さとも2.7mほどの坑口をもつ坑門工はしっかりしているように見えるが、内部は崩落の恐れがあるということで2006(平成18)年8月から通行止めになっている。やむなく峠を越えて鳴戸川流域に出る。こちらには高野町により幅員4m余りの林道が整備され、山上まで通じている。途中、高架橋(④、表題の写真)を見ることができる。この先、内子谷川流域に向かっていた湯川隧道は、かなり硬い岩をくり抜いて建設されたようで、少し崩れているところがあるもののまだ通ることはできる状態だと聞く。
わが国の国有林は国土の 20%、森林面積の 30%を占める重要な資源である。1955年ころから国内の木材需要が急増し、林野庁は伐採範囲を広げることによって対応したが、これが環境破壊との社会的批判を浴びる結果をもたらした。同時に進行した貿易の自由化や円高の進行などにより国産木材の価格が低迷する一方で人件費などの経営コストが増大し、国有林野の財務状況は危機的なまでに悪化するようになった。1998(平成10)年、「国有林野の改革のための特別措置法」(平成10年法律第134号)が制定され、2兆8,000億円の累積債務を一般会計の負担とするとともに、国土保全・水源涵養・森林と人のふれあいなどの公益機能を重視する施策に切替えられた7)。これに基づき、高野山でも生産事業の廃止と営林署組織の縮小が進められた。現在の高野山国有林の天然林は学術参考保護林や風致保護林を含む国定公園特別保護地区に指定され、将来とも保存することとされている。人工林も98年以降 伐採されていない。
防災の観点だけに絞っても、昨今の激しい降雨による土砂災害の発生を見れば、森林を健全に保全するという営林事業の重要性が減ずるとは考えられない。適切な間伐や野生鳥獣への対応などの育林事業や土砂流出防止などの治山事業が重要だ。また、市街地の市街地の稠密化が進んで大規模な河川改修が困難になっている中で洪水被害を軽減するには、上流部の森林による調整機能に多くの期待を寄せざるを得ない。かつて生産事業に活躍してその使命を終えた森林軌道の形を変えた活用が期待される。
1) これにより椎出は急速に発展し、10軒以上の旅館や50軒以上の茶店・飲食店が軒を連ねるようになった。団体客の多い春秋には300台余りの人力車が高野口駅と椎出の間を往復し200挺に余る山駕籠が高野山までの道を行き来したという。一方、河根の凋落は著しく、住民は人力車や駕籠をかついで山道を越えて椎出まで出稼ぎに出なければならなくなった。これを見かねた村長 刀禰 富太郎は私財を投じて河根から赤瀬までの里道を拓いた(1911(明治44)年完成)。
2) 1913(大正2)年にこれを短絡する目的で神谷に延長295mのインクライン(incline、傾斜地に軌条を敷き動力で台車を上下させる一種のケーブルカー)を敷設したが、機関車運材を行うようになるとかえって効率的輸送のネックとなり、1951(昭和26)年に廃止されて再び極楽橋を迂回するルートで通車輸送されるようになった。
3)1954(昭和29)年に和歌山県によって事業化され、56年に設立された日本道路公団が引継いで60年に完成した一般有料道路。九度山町下古沢~高野町大門間 延長17.0km。87年に無料開放され、下古沢から途中の矢立交差点までが国道370号、矢立から大門までが国道480号になっている。
4) 丹生川及び国道370号を越える鋼上路プラットトラス橋で、L=72.52m。約40度の斜角がついている。1925(大正14)年架橋。2008(平成20)年に紀伊清水駅、学文路駅、九度山駅、高野下駅、下古沢駅、上古沢駅、紀伊細川駅、紀伊神谷駅、極楽橋駅、高野山駅、紀ノ川橋梁、鋼索線とともに近代化産業遺産に認定された。
5) 森林軌道よりわずかに遅れて1911(明治44)年に開通した椎出から大門に至る延長6,430mの貨物用架空索道で、わが国における最初の索道事業と考えられている(自家用の索道としては1890(明治23)年に開通した足尾銅山の単線索道があった)。機械の供給と設計はセレッティ・タンハニー社(イタリア)、工事はドイツ人技師カタネオ(大阪の通天閣を建設した)の指導によって行われた。複線自動循環式索道で、200kg積の搬器100台により片道約7t/時の輸送量があり、山上で暮らす僧侶や住民の生活物資や高野豆腐の原料・製品の輸送及び参詣者の荷物の託送などに使用された。高野山霊宝館・金堂・根本大塔の建立にも多くの建設資材を運び上げた。しかし、1934(昭和9)年に玉川林道が開かれて山上までトラックが行けるようになると高野索道の輸送需要は激減し、60年の高野山道路の開通を機に業態を自動車輸送に転換して索道は廃止された。なお、1952(昭和27)・53年の豪雨で道路などが山津波で甚大な被害を受けた時には、高野索道は唯一の輸送機関として救援物資の輸送、山上の生活確保、復興資材の輸送に活躍している(斎藤 達男「日本近代の架空索道」(コロナ社)による)。現在は、同社は南海系の「サザントランスポートサービス」として主に関西空港に関連する輸送を行っており、大門駅跡地に営業所を保有している。
6) レールの規格は1m当たりの重量で呼ばれており、JISでは普通鉄道用として60kg(主に新幹線)、50kg(主に在来線の幹線)、40kg(主にローカル線)、37kg(主に引込線、待避線など)のものが規定されている。これ以外に工事や鉱山での使用のために、断面の小さなレールが存する。
7) 1947(昭和22)年に農林省(本州・四国・九州の国有林を所管)・内務省(北海道の国有林を所管)・宮内省(皇室の御料林を所管)の国有林を統合して以来、国有林野事業は木材の販売収入を基盤とする特別会計で実施されてきた。本法では特別会計に一般会計から資金を繰り入れて公益的な事業を行うこととしていたが、2013(平成25)年に「国有林野の有する公益的機能の維持増進を図るための国有林野の管理運営に関する法律等の一部を改正する等の法律」(平成24年法律第42号)が施行され、特別会計を廃止して森林の公益重視の管理をさらに推進するとともに、低コスト林業技術の開発普及・民間の森林事業体やその人材の育成・木材の安定供給体制の構築などを図ることとされた。
(出典) 「関西の公共事業・土木遺産探訪<第3集>」p98
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