2025.1.6
白川は、比叡山に源を発し如意が岳の水を合わせて、京都市左京区北白川から閑静な市街地を経て同区岡崎で琵琶湖疏水にいったん合流し、すぐに南に分かれて東山区の知恩院や八坂神社西方の重要伝統的建造物群保存地区や歴史的景観保全地区を流れて、四条大橋の北で鴨川に注ぐ全長9.3kmの一級河川である。本稿では、白川に架かる京都市管理の44橋のうち、三条通(府道四ノ宮四ツ塚線)に架かる白川橋から大和大路に架かる大和橋までの13橋を「祇園白川の橋梁群」と名付けて、それらの歴史や現況を概観する。なお、13橋の位置及び橋名は図1のとおりである。
番号 | 橋 名 |
① | 白川橋 |
② | 土居ノ内橋 |
③ | 梅宮橋 |
④ | 唐戸鼻橋 |
⑤ | 古川町橋 |
⑥ | 古門前橋 |
⑦ | 菊屋橋 |
⑧ | 狸橋 |
⑨ | 有済橋 |
⑩ | 新門前橋 |
⑪ | 新橋 |
⑫ | 巽橋 |
⑬ | 大和橋 |
これらの成立の経緯はさまざまだ。
これらの成立の経緯はさまざまだ。
図2(1)に示す「新板平安城東西南北并洛外之図」は承応3(1654)年の発行で、洛外を含めて描かれた京都の図絵としては初期のものである。八坂神社に通じる四条通には「ぎおん丁」の記述があるが、周辺にはまださしたる事物が描かれていない。が、ここには白川橋が名称とともに記載されているほか、古門前橋・菊屋橋・大和橋に相当すると思われる3橋が示されている。東海道に架かる白川橋と大和大路に架かる大和橋はともに江戸幕府によって架設され、近江・江戸方面や伏見・奈良方面への交通に利用された。古門前橋と菊屋橋は寺社への参詣に使用されたのであろう。
ところが、鴨川の新堤構築(寛文10(1670)年)の後、大和大路通(縄手通)の三条と四条の間に祇園外六町が開かれ、祇園は歓楽街として急速に発展した。貞享3(1686)年に発行された「新撰増補京大絵図」(図2(2))では芝居小屋や茶屋が何軒も描かれている。それとともに人々の通行も増加し、白川に架かる橋は8橋に増えている。その後、1712(正徳2)年には祇園内六町も開かれて花街が発展していく。祇園白川の橋梁群は祇園の成熟に伴って充実してきた。
では、ここからは対象となる橋梁を個々に見ていこう。
①白川橋 延長:8.4m、幅員:21.8m、構造:RC T桁橋、道路名:府道四ノ宮四ツ塚線
かつての東海道に架かる重要な橋で、江戸幕府が五街道を制定(慶長9(1604)年)して間もない慶長13年に架けられ、寛文2(1662)年に京都所司代の牧野 親成が五条大橋の崩れた石材を転用して石橋に造り替えたと伝わる。その後もたびたび改修され、現在の橋は昭和7(1932)年に架設したもの。令和3(2021)年に老朽化修繕と耐震補強を行っているが、その際、歩道の舗装を石風のブロックに交換し、高欄を元の材料をそのまま用いて嵩上げした。
本橋の東詰めには石の道標があり、東面に「是よりひだり ちおんゐん ぎおん きよ水みち」と記されている。延宝6(1676)年に建てられたもので、京都市に現存する最古の道標である。
②土居ノ内橋 延長: 9.9m、幅員:5.0~37m、構造:PC I型床版橋、道路名:市道粟田緯10号線
先代の橋は明治40(1907)年に架けられた幅員1.9mの石橋であったが、昭和53(1978)年に拡幅して現在のものに架け替えた。架替えにあたりコンクリート高欄を採用して落ち着いた雰囲気を出した。
名称の由来は近隣の町名による。
➂梅宮橋 延長:7.9m、幅員:1.29m、構造:石橋、道路名:市道粟田緯12号線
昭和40(1965)年にかけられた3径間の石橋で、その後の改変は行われていないようだ。2対の石柱の上に石の梁をのせ、そこに幅40cmほどの石材を各3枚並べて床版としている。両岸の柳の木と併せて、京都らしい風情を感じさせる。地元に息づいている橋であるが観光客も多い。
床版の石材に梅宮橋の刻字がある。高欄以外の箇所に橋名が刻字されているのは珍しい。
明智光秀の首塚を祀る梅宮社が本橋の東に位置し、その町名が梅宮町であることから名付けられたと思われる。
④ 唐戸鼻橋 延長:9.6m、幅員:4.0~7.35m、構造:PC I型床版橋、道路名:市道粟田緯14号線
明治40年に架けられた時は、幅員2.7mの石橋であった。これを昭和40(1965)年に架替えて現在の姿になった。架替えに当たって高欄をガードレールからRC製に変更した。
名称の由来は近隣の町名による。
⑤ 古川町橋 延長:11.7m、幅員:0.67m、構造:石橋、道路名:市道弥栄経3号線
古川町商店街の南端から少し東に折れたところにある。比叡山で千日回峰の荒行に挑んだ高僧が入洛する際に渡る橋として知られ、行者橋または阿闍梨(あじゃり)橋と呼ばれることが多い。一本橋という別名もある。
穏やかな水面と柳の緑がよく映え、京都を代表する景観としてしばしば映画やテレビドラマのロケが行われる。明治40年に架けられた石橋であり、白川に架かる橋としては最も古い。梅宮橋に似ているが、全体は4径間で、各径間ごとに2枚の石材で床版としており幅員は梅宮橋よりさらに狭い。「橘窓自語」(橋本 経亮)の天明6(1786)年の記事に「白川の下流、知恩院のあたりに一本橋という2本の石を渡した橋」が記述されているということであり(松村 博「京の橋ものがたり」(松籟社))、かなり以前から現況のような姿態の橋が架かっていたようである。
なお、明治40年に土居ノ内橋・唐戸鼻橋・古川町橋の3橋が一斉に架替えられたのは、何か理由があるのかも知れないが未調査である。
⑥ 古門前橋 延長:17.2m、幅員:7.0m、構造:SRC桁橋、道路名:市道弥栄経3号線
現在の橋は昭和10(1935)年に改修されたもので、平成28(2016)~30年にかけて桁の鋼芯材補強などの老朽化工事・耐震補強工事行った。梁はコンクリートで巻立てられているが、高欄・舗装・支柱は従来の石製のものを引続き使用している。
京都市によると万治3(1660)年の銘があるということだが、図2(1)によればそれ以前から架かっていたと思われる。知恩院が発展するのは徳川 家康が当寺を菩提寺と定め703万石余の寄進をして(慶長8(1603)年)伽藍の建設を命じたのが契機であり、黒門に通じる古門前橋もそれに伴って架設された可能性がある。石橋に改修されたのがこの年なのかもしれない。
また、市によれば、中央の橋脚に「正徳年間」(1711~1716年)の刻字があるとのことで、何度も修復しながら維持されてきたことが伺われる。
⑦ 菊屋橋 延長:9.7m、幅員:15.51~23.0m、構造:RCボックスカルバート床版橋ほか、道路名:府道四ノ宮四ツ塚線
もともとここには八坂神社石段下に通じる骨堀(こっぽり)通という細い道があったが、それを拡幅して市電が廣道馬町(後に馬町と改称)~三條東四丁(後に東山三条と改称)間を開業した際に架けられた(大正元(1912)年)。
I型鋼桁橋であったが、平成27(2015)年度に車道部をRCボックスカルバート床版橋に構造変更した。既存の石製高欄を再利用して景観の維持を図っている。それに先立つ昭和53(1978)年に市電が廃止され、翌年に歩道の拡幅を行って上屋のついたバス停を設置している。
⑧ 狸橋 延長:8.44m、幅員:3.78m、構造:I型鋼桁橋、道路名:有済経6号線
祇園花街の華やかな新門前通と静かな住宅が並ぶ古門前通を南北に結ぶ。この街並みのコントラストが人を惑わすとしてこの橋名がついたと伝わる。
現在の橋は、昭和13(1938)年に架けられた橋が主桁の腐食を生じたため、平成14(2002)年に架替えられたもの。高欄はコンクリート製から鋼製に変わったが、アーチ状にすることにより先代の面影を残したという。
⑨ 有済橋 延長: 8.76m、幅員:9.56m、構造:RC床版橋、道路名:市道花見小路通
花見小路は、祇園を南北に貫くメインストリートで、本橋の存する四条通以北の区間は戦後に拡幅された新しい歓楽街である。小路とは言いながら2車線の幅員を持つ。
今は廃校となった地元の小学校に因む命名で、「書経」の「必有忍其乃有済」(必ず忍ぶ有りて其れ乃ち済(な)す有り)に拠る。花見小路の水道工事のおり白川の川底から掘出された地蔵像が「なすあり地蔵菩薩」として本橋の北詰めに祀られている。
昭和35(1970)年の架設で、後に高欄をコンクリート製から鋼製に替えている(取換え時期は不明)。
⑩ 新門前橋 延長:9.9m、幅員:5.75m、構造:RC T桁橋、道路名:市道新門前通
本橋を含む新門前通は、「祇園縄手・新門前歴史的景観保全修景地区」に指定されており、骨董や古美術を扱う店が集まる落ち着いた街並みの中に本橋がたたずむ。
昭和3(1928)年に架けられた。当時は丸みを帯びたコンクリート製の高欄が特徴だったが、現在は軽快な鋼製高欄に変わっている。取換え時期は不明。塗色は焦茶色であり、周辺の伝統的な家屋群に対して橋梁の存在感を抑制している。
⑪ 新橋 延長:11.8m、幅員:9.68m、構造:RC床版橋、道路名:市道新橋通
京都市市史編さん所が所蔵する正徳3(1713)の絵図にすでに本橋が見えるという。現在の橋は昭和33(1958)年の架設。祇園新橋と呼ばれることが多い。
新橋通には洗練された茶屋様式の町家が整然と建ち並ぶ。「祇園新橋伝統的建造物群保存地区」に選定され、最も祇園らしい情緒ある印象的な街並みとなっている。本橋も、舗装をアスファルトから石畳に、高欄をコンクリートから木製に変更している。また、側面に桁隠しをとりつけて風情を醸し出している。
⑫ 巽橋 延長:7.5m、幅員:3.09m、構造:I型鋼桁橋、道路名:弥栄経7号線
舞妓らが芸事の上達を願う辰巳大明神が橋の北詰めに有ることから名付けられたとされる。切通しと呼ばれる細い路地に続いており、紅殻格子や犬矢来を備えた町屋と石畳、白川の美しい流れ、桜や紅葉など四季の彩りが典型的な祇園の景観を作り出している。
文政12(1829)年に木橋が私費で架けられ、土橋の時代を経て、昭和32(1957)年に本橋が架設されている。その後、舗装をアスファルトから石畳に、高欄をコンクリートから木製に変更している(施工時期は不明)。鋼桁橋であるが、床版を厚くして側面から桁が見えないようにしていることも効果がある。
本橋も伝統的建造物群保存地区に存するが、上述のような整備を行うことにより、“橋梁が周囲にマッチしている”と言うレベルを超えて、橋梁自体が地区の景観構成要素になって観光客を引きつけている。
⑬ 大和橋 延長: 7.6m、幅員:8.3m、構造:石桁橋、道路名:市道大和大路通
現在の橋は明治45(1912)年に架けられ、平成15(2003)年に舗装及び高欄を補修している。舗装はアスファルトから石畳に替え、高欄は嵩上げをしているが材質やデザインは従前を踏襲した。5tの荷重制限がかかっている。
なお、本橋の北詰めには、本橋が幕府により建設された石橋であったことを紹介するとともに「これからも当時の面影を残す貴重な石橋として保存してまいります」という説明板が設置されている。
京都市が行っている「京都観光総合調査」によれば、令和5(2023)年に京都市を訪問した観光客は、日本人(通勤・通学以外の目的で入洛した人で修学旅行生を除く)4,319万人、外国人709万人の合計5,028万人である。京都観光は外国人において特に評価が高く、親しい知人に京都訪問を勧めたいかという問いに対するNPS1)は69.2にのぼっている。外国人観光客の51.3%が祇園周辺を訪れており、その多くが祇園白川とその橋梁群を目にしていよう。
祇園白川の橋梁群が観光スポットとなっている大きな理由は京都市の整備方針にある。供用中の土木構造物のあるべきあり方として、老朽化すれば補修し規格・規準が変わればそれに合わせて改修されるのだが、近年、祇園白川の橋梁群について、京都市は単に機能を維持・増進するだけの整備ではなく、もとの素材や景観をできるだけ残すような整備を続けてきた。また、更新の機会を見つけて橋面の修景を図ってきた。
京都市は「京都市市街地景観整備条例」を1972(昭和47)年に制定し、美観地区内等の工作物の形態意匠等について、周辺の町並みの景観と調和するよう制限をかけてきている。また、2010(平成22)年には、「京(みやこ)のみちデザイン指針」を策定し、道路空間のデザインを景観形成の骨格と位置付け、設計を行うにあたっての基本的な考えかたを示した。今回対象の橋梁補修においても、上記の考えを基本とし、景観の維持・向上を図ったものと思われる。
もうひとつは、当該区間の白川が琵琶湖疏水から分流していることがある。これにより水量がコントロールされ、橋梁は洪水の影響から免れて水面に近いところに設置できる。橋梁と市街地の連続性が保たれるということだ。琵琶湖疏水の恩恵はここにも現れていた。
(謝辞) 本稿の作成にあたり、京都市から資料の提供を受けた。
1) Net Promoter Scoreのこと。顧客の愛着度を分布の偏りを考慮して比較するための指標で、積極的推奨者の割合から推奨者以外の割合を引いたもの。例えば、「たいへんそう思う」、「そう思う」、「ややそう思う」、「どちらでもない」、「ややそう思わない」、「そう思わない」、「まったくそう思わない」の7段階で評価した場合、「たいへんそう思う」の割合から「ややそう思う」~「まったくそう思わない」までの割合の合計を引く。令和5年の調査では、親しい知人に京都訪問を勧めたいかという問いに対して、「たいへんそう思う」が74.7%、「ややそう思う」~「まったくそう思わない」の合計が5.5%であった。
あわせて読みたい記事