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土木遺産㉟ 西野水道-農民の力で掘り上げた220mの放水路トンネル

土木遺産㉟ 西野水道-農民の力で掘り上げた220mの放水路トンネル

2023.1.16

江戸時代の石工が手掘りした西野水道の内部

琵琶湖に注ぐ余呉川は、福井県境に近い椿坂峠に源を発し、おおむね国道365号に沿って木之本町付近に流れる。ここで琵琶湖に2kmまで近づくが、湖岸に沿って賤ケ岳から山本山に連なる山塊が横たわっているため流入することができずに、高月町西野からさらに南流して山本山南麓を回って琵琶湖に合する。延長32km、流域面積79km2である。

図1 西野水道の位置

こういうことで、余呉川の下流部は流下勾配が小さく、大雨が降るたびに氾濫を起こした。田圃にたまった水を排除するのに当時は有効な方法がなく、長期の冠水のために稲が腐って飢饉になることもしばしばだった。特に1783(天明3)年、1787(天明7)年、1807(文化4)年の大洪水は壊滅的な被害をもたらし、村人はどんぐりを拾い葛の根を掘って飢えをしのいだと伝わる。

西野村に育って幼少期から洪水の被害を見てきた充満寺住職の恵荘(えしょう、1778(安永9)~1849(嘉永3)年)は、これを解消するためには村の西に立ちはだかる山をくりぬいて余呉川の水を直接琵琶湖に流すしかないと考えた。1836(天保7)年は、全国的には干ばつに見舞われたが西野村は幸いにも豊作だった。これがタイミングだと見た恵荘は、村人を説得し藩の許可も取り付けて工事に着手した。

1840年に能登の石工が来村して掘削を開始したが、岩の硬さに工事は難航した。3年目に入っても西側から約39m、東側から約20mしか進まず、石工はあきらめて郷里に帰ってしまった。恵荘らは大いに落胆したが、こんどは伊勢の石工と契約することができ、1843年から工事は再開された。硬い岩を熱して破砕しながら掘っていったが、進むにつれ小さな落盤がしきりに起こった。彦根藩からの枠木・人夫の支援と湖畔に祠を建てて神に祈った結果、1845(弘化2)年6月3日、ついに30cmほどの穴が貫通した。村人は3日間仕事を休み、酒盛りや芝居を楽しんで祝ったという。近隣から見物の人が殺到しけが人まで出る騒ぎであった。そして9月1日に隧道は完成し、「西野水道」と名付けた。

延長約220m、幅約1~1.5m、高さ約1.5~4.1m。従事した石工は延べ5,289人、村方人足約3,500人、他村からの弁当持ち手伝い123人、彦根藩からの手伝い人足1,490人。このトンネルにより洪水の心配は少なくなったが、これを掘るのに要した費用1,275両(現在価格にして約5億円)はおよそ100戸の西野村の農民が負担した。自らの生活を守り安定した生産を実現するために村人が工事に立ち上がったという事実は、近世農民の主体的でアクティブな生き方を証示する。

図2 西野水道の概要(西野ほりぬき公園に掲出された図による)

 

1950(昭和25)年に西野水道に並行して「西野放水路トンネル」(延長245.0m、幅4.0m、高さ4.0m)が建設された。「滋賀県土木百年年表」には、設計者として三露 嘉郎の名が記録されている。

さらに1980年には「余呉川放水路西野トンネル」(延長282.62m、幅10.3m、高さ10.3m)が建設されて、現在はこの3代目の施設が運用されている。初代と2代目は放水路としては使用されていないが、構造物は残っており人が通ることができる。

JR北陸本線高月駅から西へ3km余り行くと西野水道の案内標識が現れる。これに導かれて進むと、まず見えてくるのは3代目のトンネルだ。余呉川の水はほとんどがトンネルに流れる。さらに進むと「西野ほりぬき公園」があり、この休憩所に備えてある長靴、ヘルメット、懐中電灯を借り受けて、西野水道に向かう。記録によると石工たちの用いた道具は玄能、鶴首、鍬、鉄てこなどであって、手掘りであるため壁面は荒く足元は不陸が多い。掘りやすいところを選んだためと思われるが、屈曲が多く外部の光が入らないから懐中電灯は必需品だ。

図3 西野ほりぬき公園に用意された長靴・ヘルメット・懐中電灯

 

 

図4 西野水道に並行する2代目の「西野放水路トンネル」(上)と3代目で放水路として現用されている「余呉川放水路西野トンネル」(下)

 

トンネルを抜けた後は、2代目トンネルで戻ることができる。こちらは断面も大きく床面も平滑である。釣りや野鳥観察で湖岸に向かう人の通路として供用されている。

西野水道は、1984(昭和59)年に滋賀県指定史跡となった。地元では、毎年6月に「西野水道まつり」を開催して先祖の偉業を讃えている。当時の装束で西野集落から水道までを練り歩く時代行列や、小学生による水道劇が催される。

 

(参考文献) 滋賀県「滋賀の農業水利変遷史-未来を照らす先人の知恵と工夫-」

 

筆者:坂下 泰幸

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