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土木遺産第59回 暗峠の石畳

土木遺産第59回 暗峠の石畳

2025.9.1

石畳の残る暗峠であいさつを交わすハイカー

 

 

元禄7(1694)年9月8日、芭蕉は支考、惟然らを伴って郷里 伊賀上野を発って大坂に向かった。大坂にいる2人の高弟の不仲を仲裁するためである。体調を気遣う兄と別れて、一行は笠置から木津川を舟で下り、その日のうちに奈良に着いて猿沢池畔に宿をとった。翌9日、奈良を出て暗峠に至り、峠からは駕籠に乗って大坂に向かっている。芭蕉がこの日にこだわったのは、重陽の節句に山に登って菊酒を飲む「登高」という中国古来の風習があったから。「菊の香にくらがり登る節句かな」の句を残している。大坂では、芭蕉は2人の高弟の宅に公平に泊まりつつ、住吉大社に出かけるなどして作句を続けたが、発熱下痢をおこし花屋 仁右衛門方離れ座敷に病臥、10月12日の夕刻に没した。51歳。花屋のあったところは御堂筋の拡幅により道路区域に編入され、今ではいちょう並木の中に「此付近芭蕉終焉ノ地」と記した碑が建つ。

図1 暗越えにある2つの芭蕉句碑、上は寛政11(1794)年に暗峠に建てられその後の土砂崩れで不明になっていたが大正2(1913)年の大雨で露出し麓の勧成院に移されたもの、下は上の句碑が見つからないため明治22(1889)年に俳句結社により建てられたもの

 

今回は、芭蕉が通った「暗越え奈良街道」を芭蕉とは逆に大阪側から奈良側に越えてみよう。暗越えの入口は東高野街道との交差点にある道標(図2、図4 ①)。「東すく なら いせ道」とある。大阪と奈良を最短距離で結ぶこの道は、遠く伊勢神宮まで通ずる街道の一部としても認識されていたのだ。

伊勢神宮の正式名は「神宮」で、皇室の氏神である天照大神を祀る「皇大神宮」(内宮)や衣食住の守り神である豊受大神を祀る「豊受大神宮」(外宮)など125社から成る神社である。創建以来、一貫して国の管理のもとで運営されてきたが、中世以降はこのような性格に加え国家の総鎮守としての認識が広まり、庶民を含むあらゆる階層の信仰を集めるようになった。

江戸時代、「おかげ参り」と呼ぶ伊勢参宮ブームが周期的に起こった。慶安3(1650)、宝永2(1705)、明和8(1771)、文政13(1830)年のものが知られている。伊勢神宮に参詣するルートとしては、江戸方面からは日永(四日市市)で東海道から分岐して津・松阪を経て伊勢に至る「伊勢街道」が、京都方面からは東海道の関(亀山市)と伊勢街道の津を結ぶ「伊勢別街道」が主に利用された。大阪方面からは、玉造を出て奈良・三輪(桜井市)・初瀬(同)・榛原(宇陀市)・山粕(曽爾村)・奥津(津市)を経て松阪に至る「伊勢本街道」が伝統的な参詣ルートである。なお、このルートの榛原以東は、北流する名張川の諸支流を渡るため峠越えが連続する。これを避けるため、津の藤堂藩が名張から青山峠を越えて松阪に至る「青越え伊勢街道」を整備し、「伊勢表街道」と呼ばれるほど多くの参詣者に利用された。

図3 伊勢神宮への主な参詣ルート
図4 暗越え奈良街道の主要区間、周辺に寺社が点在する

 

さて、道標から東に向かい、近鉄のガードをくぐる。両側に民家が並んでいるが、道はかなりの急勾配で登っていく。滑り止めのコンクリート舗装が施され幅員は2m余り。勧成院(②)で芭蕉碑を見せていただいて、100mほど進むと民家が途切れ、もうひとつの句碑が路傍にある(③)。この先、周辺は枚岡公園や「府民の森」になっており、整備された園路が接続しているが、暗越えの道は谷川に沿ってひたすら登る。川には滝があって修験道の行場になっているようだ。40゚ほどの勾配のヘアピンカーブを過ぎてなおも登ると

「弘法水」という湧水がある(④)。やがて道はやや緩やかになり眼前には棚田が現れる。こんな高いところを開墾する人があるのだと驚くうちに、暗峠(標高455m)に着く。茶店が営業している。東大阪市が設置した案内によれば、江戸時代には峠に20軒ほどの茶店や旅籠があったことが「河内名所図会」(享和元(1801)年)から知れるという。棚田はその人たちのものだったのだ。

図5 暗越えの登り始め、車が1台かろうじて通れる幅しかない
図6 暗越えの中腹にある弘法水、旅人にはありがたい存在だっただろう

 

峠には約53mにわたって石畳が敷かれている。暗越えは大和郡山藩の参勤交代路ともなっており、峠の奈良側には藩主 柳沢家の本陣もあった。行列の駕籠が急な坂で滑らないようにと敷設されたと言われる。柳沢家の従者だけでなく多くの旅行者が石畳に助けられた。伊勢参宮の参拝者はもとより、大阪と奈良の間の物資輸送も最短距離で行けるこの道が多くを担ったのはまちがいない。峠の最高点にこれだけの集落があるということ自体が、この峠を越えた旅人の多さを物語っている。

現状の石畳は、目地にモルタルが注入されているなど多少の手が加えられているが、近世の街道の趣をよく伝えており「日本の道百選」に選定されている。生駒山一帯で採取される「生駒石」1)で敷設されているという。

図7 「河内名所図会」に描かれた椋嶺峠(暗峠)、茶店や旅籠20件ほどが峠付近に並んでいる(出典:秋里 籬島 選、丹羽 桃渓 画「河内名所図会」(柳原書店))
図8 大きさ・色調の異なる石材で敷設した石畳

 

一息入れて下り始めると、前方には奈良盆地の景観が広がる。中央に見える矢田丘陵も遠くに眺望できる若草山などの奈良奥山も、疲れた旅人を奈良へといざなっているようだ。

奈良の東大寺や興福寺などは今も多くの人が訪れるが、矢田丘陵にも名刹がある。とりわけ矢田山金剛山寺(こんごうせんじ)2)は地蔵信仰の中心とされ、路傍に矢田山への道標が設置されていた(⑥)。そういえば、峠の手前にあった「迎地蔵」(⑤)は、矢田山のお地蔵さまがここまで迎えにおいでになっているという設定。旅人の足を進める工夫が凝らされている。

図9 峠から奈良側を見下ろす、行く手がはるかに展望できる景観だ
図10 矢田山のお地蔵さまが峠の西側まで旅人を迎えに来られるという「迎地蔵」

 

伊勢神宮に行くことを優先するなら、現在の近鉄大阪線や国道25号・165号に沿って桜井に向かうのがはるかに合理的だ。そこをあえて暗越えを選ぶのは、観光交通は速達性よりも回遊性を重視するからなのだろう。江戸時代、旅行は費用の点でも時間の点でも負担が大きく3)、一生に一度とされていた。また、関所を通るために通行手形を受ける必要があったが、伊勢参宮を理由にすれば無条件で入手できた。それだけに伊勢参宮に併せて道中の社寺を巡るのが一般的だったのだ。

1892(明治25)年に大阪鉄道が湊町~奈良間を、98年に関西鉄道が片町・網島~奈良間を、1904(大正3)年に大阪電気軌道が上本町~奈良間を開業して、阪奈間の交通は大きく鉄軌道にシフトした。現在では、暗峠を越えるのは、”酷道”の愛好家が乗り入れるのを除けばほとんどがハイカーだ。筆者が登ったときも、峠の石畳では両側から登ってきたハイカーが互いの労をねぎらいあっていた。

 

1) 生駒山で産出する硬質の斑れい岩。鉄分を多く含み、風化とともに色調が茶褐色に変化するのが魅力とされ、庭石によく用いられる。

2) 天武天皇の命により白鳳8(679)年に創建され七堂伽藍四八坊を造営したのが開基と伝えられ、戦乱により多くの堂坊を失っていたのを、宝永・正徳年間(1704~1716)に行海満空上人が中興し栄えた。現在は北僧坊、大門坊、念仏院、南僧坊の4つを総称して矢田寺という。大門坊は、弘法大師が25才の時に国家安穏・万民豊楽の誓願を立てたとも伝える。わが国最古の延命地蔵菩薩(弘仁年間(810~824))を安置する。

3) 地域ごとに「伊勢講」という団体をつくり、積み立てた資金で代表者が参拝に行くという仕組みがあった。また、「抜け参り」といって、許可を受けずに出発し沿道で施行(せぎょう、食事や宿を無料で提供すること)を受けながら参宮することもあった。

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