2020.12.21
1868(慶応3)年に神戸が開港した。外国人居留地に住みついた各国からの居留者は、故国でペストなどの流行を経験しており、わが国でも衛生的な水道の布設を強く要求した。神戸市は横浜で実績のあるパーマー(H. S. Palmer、1838~93年)に計画を依頼した(1888(明治21)年)。が、その建設予算に難渋するうちに市の人口は著しく増大し、改めてバルトン(W. K. Burton, 1856~99年)に依頼する(92年)。彼の案は採択されたものの日清戦争の影響で着工はずれ込んだ。長崎水道で活躍した吉村長策(1860(万延元)~1928(昭和3)年)を工事長に迎えて神戸市水道事務所が発足するのは96年だった。その間に神戸の町はさらに急速な発展を見せており計画は大幅な変更が必要となった。
そこで大阪市水道より佐野藤次郎(1869(明治2)~1929(昭和4)年)が呼ばれ、バルトンの計画に修正を加える形で設計が進められた。ここで布引五本松堰堤は堤高を33.3mまで上げるため土堰堤からコンクリート堰堤に変更された。
布引五本松堰堤は1900(明治33)年に完成したわが国で最初のコンクリート堰堤である。石造りに見えるが、これは間(けん)知(ち)石を積んだものを型枠代わりにしたため。高価なセメントを節減するため、現地で発生した丸石や割石を中に投入してコンクリートを流し込む工夫もした。
浸食の激しい六甲山系では大雨が降ると土砂の混じった水が川を流れる。これが貯水池に流れ込むのを避けるため、貯水池の上流で分水して濁水をバイパスさせるトンネルが08年に追加された。参考文献によれば、バイパス水路の設置後は明らかに堆砂の速度が緩やかになっている。神戸市水道の原点として市民に親しまれている布引五本松堰堤と布引貯水池の長寿の理由はこんなところにもあるらしい。
(参考文献) 松下 眞「神戸市の古典的水道ダムにおける排砂バイパス水路」(土木学会「第40回土木史研究講演集」)
筆者:坂下 泰幸
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