2024.7.10
西御坊駅で出発を待つ紀州鉄道の車両
御坊市は、和歌山県の651kmに及ぶ海岸線の中部にあり、日高川の河口近くに開けた町である。その名は、1595(文禄4)年に当地に開かれた「日高坊舎」(1877(明治10)年に「本願寺日高別院」と称する)が「御坊さん」と呼ばれたのに由来する。
平安時代から特に興隆をみた熊野信仰に関し、大阪から熊野まで通じる「熊野古道」と呼ばれる参詣道が整備されていった。御坊にも熊野古道が通っており、それは安珍・清姫の逸話で知られる「道成寺」(701(大宝元)年創建)に接近しつつ、現在の御坊市街の東を通過し、野口新橋がある付近で日高川を渡っていた。その頃は、市街地のあたりは湿地だったと思われる。一方、当地における近代的な道路は、1919(大正8)年に公布され翌年から施行された(旧)道路法(大正8年4月10日法律第58号)に規定された国道・府県道・郡道・市道・町村道の区分に基づき、9年に和歌山御坊線や御坊田辺線など一連の県道が認定されたのを最初とする。御坊では、本願寺日高別院の前を通る道路がそれだ。古道と県道は、御坊の北ではルートを異にするが、王子川を渡る付近で一致し、おおむね海岸線に沿って南行する。
図1 御坊の地名の由来となった本願寺日高別院
ところが、JR紀勢本線のルートは御坊の北では県道と並行しているが、中心市街地の2kmほど北で大きく東に向きを変えて、ここに御坊駅を設けている。和歌山県における紀勢本線の歴史は比較的新しく、大正13(1924)年に和歌山(現在の紀和)から東和歌山(現在の和歌山)を経て簑島まで開通したのを皮切りに順次路線を伸ばし、御坊に達したのは1929(昭和4)年であった。そして、熊野古道や熊野街道と離れた内陸部にルートを得て、翌年には印南に達した。
鉄道は御坊の人々にとって大いに期待される交通機関であった。というのは、自動車の使用が一般的でない当時にあっては、御坊から他郷に行くには汽船が利用されていたが、船酔いがひどいなど船内の環境は劣悪であった。しかも、大阪まで11時間も要した。鉄道の利便性は比べるまでもない。紀勢本線の建設が始まった時から、御坊では駅の位置について激しい争奪戦が続いていた。それにもかかわらず駅が市街地から離れた湯川村に設けられたのは、当時の政治情勢が影響したというのが通説である。当時は農村部の地主層を主な支持基盤とする政友会と都市部の商工業者を主な支持基盤とする憲政会が対立していたが、憲政会は昭和2年の第13回総選挙で惨敗を喫し、政友会が政権を握っていた。一方、御坊では激しい選挙戦の末、政友会の候補が立て続けに敗れるという苦い経験をしており、憲政会の優勢な御坊に鉄道を敷くことに政友会の幹部が強く反対したということのようだ。加えて、当時の有力な県会議員であった夏見 康太郎1)が、自身の出身地である稲原に鉄道駅ができることを期待して政友会の方針に沿った宣伝活動を盛んにおこなったことも、鉄道が御坊を避けて湯川村から稲原村に向かうルートになる一因であったと言う(参考文献1による)。
図2 御坊周辺の交通路の経路
日高川は、奈良県境の護摩壇山に源を発し、山間部に著しい穿入蛇行を形成しながら御坊の日高港で海に注ぐ、延長115kmの二級河川である。上流では林業が盛んで、木材輸送のため管流しや筏流しが行われてきた。薪炭・漆・椎茸などの山産物も「タキ舟」「ヒラタ舟」と呼ばれる川舟で御坊に運ばれた。また、日高川の沿川はみかんの産地でもある。これも河口の港から各地に搬出された。
これらを鉄道によって輸送し、併せて御坊の市街地と駅を結ぶことを目的として、田淵 栄次郎2)が発起人総代となって御坊駅から市街の西側を通って日高川河口までの地方鉄道が企画された。軌間は国鉄と同じ1,067mmである。1928(昭和3)年3月に免許が下付され、12月に「御坊臨港鉄道」が創立された。用地買収への抵抗や主力の「日高銀行」の破綻など多難であったが、31年6月に御坊~紀伊御坊間1.8kmを開業。紀伊御坊~西御坊間0.9kmは32年4月に、西御坊~日高川間0.7kmは34年4月にそれぞれ開業している。木材やみかんに加えて、沿線にあった「日出紡績」の原料・製品の輸送もあって、貨物輸送のウエイトの高い鉄道として成長した。
図3 民家の軒先をかすめるように走る紀州鉄道 図4 湯川第4橋梁と桁の刻印、「ENGLAND」の文字が読み取れるが本路線の建設時点ではイギリスからの輸入は行われておらず他路線からの転用であろう(画像は180゚回転)
御坊臨港鉄道の経営に大きなダメージを与えたのは空襲である。45年6月に日高川駅にあった機関庫に直撃弾を受けて全焼した。その傷がまだ癒されない53年7月には、御坊は大規模な水害に見舞われた。臨港鉄道も全線にわたって線路が流出し、退避の遅れた機関車は濁流にのまれて横転した。
55年に大和紡績松原工場への側線を設けて、同工場の原糸・製品の輸送を開始するなどして、業績の向上を図っている。輸送量が最も多かったのは64年で年間105万人の乗降客を数えたが、その後は人口の減少や自動車利用への転換により減少に転じた。もともと需要が限られていた鉄道であったため、このままでは廃止に至るのではないかと懸念された。
ところが、ここに同社を買収しようという企業が現れたのである。1968年に倒産した「磐梯急行電鉄」3)の旧経営陣が設立した「磐梯電鉄不動産」がそれだ。同社は、鉄道会社としての信用が観光開発や不動産事業に有利であることを知っていた。72年に累積赤字約3,300万円、借入金約6,000万円の御坊臨港鉄道を約1億円で取得し、翌年1月に「紀州鉄道」と社名を変更した。79年に「鶴屋産業」の傘下に入り、現在に至るまで不動産業を主力として那須高原・北軽井沢などでリゾート開発を展開している。
このような中、1984年には国鉄の貨物取扱い廃止と共に貨物輸送を廃止。ダイワボウへの引き込み線も廃止された。1989(平成元)年には西御坊~日高川間を廃線とし、延長が2.7kmとなった。
図5 廃線となった西御坊~日高川間の現況
地方鉄道の例に漏れず、紀州鉄道も営業は厳しい。国土交通省が公表している令和元年度のデータでは、紀州鉄道の鉄道事業営業係数は612.5と「阿佐海岸鉄道」に次いで2番目に悪いが、規模が小さいので営業損失は67百万に留まっている。本業であるリゾート事業でカバーできているようで、赤字にもかかわらずコロナ禍でも毎日18往復の列車を走らせて(2022年3月12日改正ダイヤ)利用者のつなぎ止めに務めている。鉄道事業にかける想いは深いと見た。廃止する意向はなさそうだ。
とは言え、必要な費用の16%しか稼げていない現状を決してよしとはしない。紀州鉄道は幸いにも企業の努力により維持されているが、概して地方鉄道は存廃が問題となるほど経営が逼迫している事例も多い。鉄道は維持すべきなのか、維持するとすればどういう方策があるか、各地で模索が続いている
1) 夏見 康太郎は、1872(明治5)年に日高郡稲原村に生まれ、1900年に県会議員に当選して以来1932(昭和7)年に至るまで県政のために尽瘁した。その間、長く稲原村長を兼ねた。淡々として常に微笑を浮かべて人に接するという温容な性格で、自己を語ることの少ない人であったという。1938(昭和13)年没。13回忌に当たる1950年に彼の顕彰会が組織され53年に頌徳碑が建立された。
2) 酒造業を営む田淵 善兵衞の二男として1873(明治6)年に生まれ、1917(大正6)年に家督を継いで家業を営みながら日高物産・由良臨港土地・日高銀行・大分セメント・白濱温泉自動車・南海信託・南海紙業などの経営に関わった。
3) 沼尻鉱山で採れる硫黄を磐越西線川桁駅まで運ぶために1913(大正2)年に営業開始した「耶麻軌道」(L=15.6km)が前身で、スキー場・別荘などの観光開発を促進するために1967(昭和42)年に名称変更したもの。不明朗な経営が原因で翌年に倒産した。
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