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第71回 土木遺産_十三大橋-橋梁設計技術者 増田 淳の作品を訪ねて

第71回 土木遺産_十三大橋-橋梁設計技術者 増田 淳の作品を訪ねて

第71回 土木遺産_十三大橋-橋梁設計技術者 増田 淳の作品を訪ねて

2026.8.25

回は、増田 淳(1833(明治16)~1947(昭和22)年)の作品である十三大橋を紹介しよう。増田は大正末期から昭和初期にかけて活躍した橋梁設計技術者のパイオニアだ。東京帝国大学で廣井 勇1)に橋梁工学を学び、卒業後、アメリカに渡って、いくつかの著名な橋梁設計事務所の勤務を通じて最新の設計技術を身につけた。約15年の滞米中に30橋の設計施工を担当している。1922 (大正11)年に帰国して東京に「増田橋梁研究所」を立上げた。

当時は、土木構造物の設計は発注機関のインハウスエンジニアが行うこととなっていた。しかし、1919(大正8)年に制定された(旧)道路法により道路管理者である地方自治体に大きな責務が課されることになった2)のに対し、自治体には高度な道路橋を設計できるエンジニアが少なかったので、増田のもとには多くの自治体から橋梁の設計や施工監理の依頼が舞い込んだ。設計業務を民間に委託するのが一般的ではなかったらしく、彼は多くの場合、自治体の嘱託の立場で仕事をしている。1931(昭和6)年に出された増田橋梁研究所の会社案内「Souvenir Bridge Catalogue」には、設立から10年間の実績として、北は宮城県から南は宮崎県まで10に及ぶ府県の嘱託として設計した55の橋梁が紹介されているそうである。

架橋から100年近くが経過し、増田が手がけた橋梁には老朽化や幅員狭小などの理由で架替えられたものも多いし、残っているものでも金属供出や拡幅・歩道添架などの改築により彼の特徴とされる吟味された橋面工を失っているものも多い。そのような中で、増田の造形をよく保っているとされる十三大橋を訪れた。

 

 

三大橋は、大阪から池田に向かう国道176号が新淀川を渡る地点に架けられた全長681.24mの橋梁で、低水部は5連の鋼ブレースドリブ・タイドアーチ3)、両側の高水敷はそれぞれ5連のゲルバー式版桁橋4)と1連の単版桁橋から成る。

古くは「能勢街道」と呼ばれた国道176号は、米・酒・薪炭などの輸送や妙見山への参詣に利用されていたが、新淀川の開削に伴い、1909(明治42)年に「十三橋」という幅員18尺(約5.5m)、延長385間(約700m)の鋼版桁橋が架けられた。次いで、1925(大正14)年の大阪市域拡張を契機に計画された、大阪市と府下の各地を結ぶ「十大放射路線」の1つとして本道路が知事施行に係る都市計画道路事業により改良され、今見る十三大橋が架けられたのである。1930(昭和5)年1月に着工し32年1月に竣工した。同時に、新淀川に並流する長柄運河に十三小橋(L=25.134m)も架けられている。

十三大橋は、上流に近接する阪急電車の橋梁を考慮し、径間はその2倍として低水部で約64m、高水敷で約33mとしている。幅員は20mであり、中央に軌道敷5.69mをとり、その両側に4.405mずつの車道、さらにその外側に2.75mの歩道が確保されている。ただし、軌道は直ちに整備されることがなかったので、暫定的にアスファルト乳剤で表面処理し、車道はアスファルトブロックで舗装した。

その施工方法は、まず、橋脚については、高水敷では1基につき末口25.4cm、長さ18.4mの松杭176本を基礎とする鉄筋コンクリート構造で築造し、低水部では鉄筋コンクリートまたは鉄骨鉄筋コンクリート製の潜函(ニューマチック・ケーソン)5)を採用した。上部工については、八幡製鉄から調達した鋼材を、タイドアーチは横河橋梁と汽車製造、版桁は大阪鉄工所と日本橋梁の工場で部材に加工し、架設は大阪鉄工所が行った。

 

 

急中津駅から国道176号の連続した高架橋を北に進む。淀川左岸線(2期)の工事が進む長柄運河を過ぎると、十三大橋の大きな親柱(図1)が迎えてくれる。かつては照明器具が取り付けられていたが現存しない。

 

その傍らの高欄には歯車のモチーフの装飾がはめ込まれている(図2A)。1923(大正12)年の関東大震災のあと多くの企業が東京から大阪に移り、本橋を建設する時点の大阪は「大大阪」と呼ばれる繁栄を迎えていた。人口や工業出荷額は国内最大であり、世界有数の大都市として発展していた。これをイメージした造形であろう。

橋上を進むと、高欄にも歯車をイメージした装飾がある(図2B)。さらに、アーチ橋にさしかかると、そのポータル6)にも歯車の装飾が施されている(図2C)ことが確認できる。

 

アーチ橋の鋼材はおびただしいリベット(rivet)で接合されている(図3)。リベットとは頭部と軸部からなる金属製の棒で、これを穴に差し込んで軸部の先端をつぶすことにより2枚以上の材料を強く接合するのである。現在ならばボルトで締めるか溶接するところだ。

アーチ橋の区間を過ぎてふりかえると、路面に段差ができているのが見て取れる(図4)。ケーソン基礎のアーチ橋に比べて松杭を基礎とする版桁橋の沈下が大きいことが推測できる。だが、増田はこのような沈下が起こることをあらかじめ設計に織り込んでいた。そのために採用したのがゲルバー式の版桁だったのだ。

 

橋を渡りきると、堤防の上に「十三渡し跡」の碑と新淀川開削の説明版が立っている(図5)。ここから河川敷きに降りると、沈下に対応できるように取り入れられたゲルバー版桁をまぢかに見ることができる(図6)。ただし、ゲルバー式の構造は現在ではほとんど用いられない。可動部分が弱点となりやすいためだ。現在では杭の打設工法が格段に進歩しており、堅固な支持層まで確実に杭が打設できるため、かつてほど沈下を心配する必要がないことによる。

改めて堤防の上から本橋を見る。広い水面を雄大に渡る5連のアーチは発展する大阪の躍動感をリズミカルに表現しているように思える。

 

 

神大震災にも耐え95年の寿命を誇る要因のひとつに、路面電車の導入を設計の前提としていたことが挙げられる。今、20mの幅員は、北行きが1車線、南行きが3車線という変則な車線構成で運用されているが、北行きは約300m下流に架けられた新十三大橋(4車線)が補っている。路面電車は運行されず、1953(昭和28)年に大阪駅前~神崎川間をトロリーバスが走ったが、69年に廃止された。

 

 

1) 1862(文久2)年に高知県に生まれ、内村鑑三や新渡戸稲造と共に札幌農学校に学び、工部省に奉職。その後アメリカ合衆国に留学し、1889(明治22)年に帰国して札幌農学校教授を経て小樽築港事務所長に就任し、わが国初のコンクリート製長大防波堤建設に従事した。99年には東京帝国大学教授となっている。1928(昭和3)年没。

2) 旧道路法(大正8年4月14日法律第58号)においては、国道と府県道の道路管理者は府県知事であって、これら道路の新設、改築、修繕、維持は知事が行うこととされ、大臣が必要と認めるときに限り国道の新設または改築を大臣が行うことができるとされた。

3) ブレースドリブ(braced-rib)アーチとは、アーチ橋の主構部分をトラス構造にして強度を増したもの。タイド(tied)アーチとはアーチ橋の支点部同士を引張部材で結んだもの。自定式アーチとも呼ぶ。この形式では、水平力は橋内部に閉じこめられるため、支点部に水平力が発生しない。

4) 版桁の中央部を左右から張り出した桁で受ける形式。1866年、ドイツのゲルバー(Heinrich Gerber、(1832~1912 年)が創案した。経済性に優れ、支点の不同沈下に追随できるという利点がある反面、継目が構造上の弱点となる。英語ではカンチレバー (cantilever) 橋と呼ぶ。

5) ケーソン(caisson)とは大きな箱という意味で、鉄筋コンクリートなどで作った中空の箱形または筒型の構造物。海洋や河川の地下に沈めて構造物の基礎とすることが多い。掘削しながら大型の箱を支持層まで沈めていって基礎とするが、水中や地下水位の高いところで施工する際に、浸水を防ぐために作業スペースを加圧して掘削を行う方法をニューマチック・ケーソン(pneumatic caisson)工法と呼ぶ。作業員の安全衛生管理に配慮を要する。

6) 門やトンネルなどの入口(portal)

 

 

 

 

 

 

 

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