2025.2.3
大阪と神戸の間に位置する阪神間地域には、早くも1874(明治7)年に鉄道が開通していたが、阪神電車が1905(明治38)年に開通したのを契機に、住吉や御影に名だたる富豪が移り住んで広壮な邸宅を構えるようになった。
富豪らの個人レベルでの自然発生的な移住を計画的・組織的に拡大したのは、電鉄会社であった。阪神電鉄は、1907年に「市外居住のすすめ」という冊子を発行しているが、これは大阪府立高等医学校長 佐多 愛彦1)を始めとする医師らが行った「田園生活は健康の最良法なり」などの講演をまとめたもので、子女の健康と養育に深い関心を寄せる富裕層の共感を引いた。同社は、西宮(1909年)、鳴尾(10年)から御影(11年)での分譲住宅へと住宅地経営事業を展開していったが、それを誘導する意味も込めて、打出浜(05年)2)や香櫨園浜(07年)3)に海水浴場を開設し、「香櫨園」(07年)4)に動物園と博物館を出展し、遊休化していた鳴尾競馬場を「鳴尾運動場」(14(大正3)年)5)として利用するなど、スポーツ・レクリエーション施設を通じてモダンな郊外生活を演出している6)。事実、阪神電鉄が経営した住宅地は周囲の住民から「文化村」と呼ばれた。ここに居住していた森重久弥は「一種の文化村で、文士や大阪、神戸の裁判官ら文化人が多数住んでいた」(「もう一度逢いたい」)と、佐藤愛子は「大阪神戸への勤め人、銀行家や裁判官や新聞記者や役人など、この農村ではいわゆる知識階級と目される人が集まっている」(「血脈」)所だったと、それぞれ当時を回想している。
同じ頃、池田(1909年)で分譲住宅の経営を始めた箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)は、沿線に住宅事業を積極的に拡大していたが、1920(大正9)年に神戸線を開業して岡本(21年)・甲東園(23年)など阪神間の住宅地経営にも乗り出してきた。これを迎え撃つ阪神電車が手がけたのが甲子園の開発であった。
阪神間への住宅の集積に伴って、兵庫県では自動車交通への対応と武庫川の洪水対策が喫緊の課題となっていた。河床の高い武庫川は、1896(明治29)年と97年に決壊して多数の死傷者を出しており、抜本的な改修が求められていた。県は、水害の元凶となっている派流の枝川と申(さる)川を廃川とする方針を立て、それらの敷地を民間に売却して河川改修及び阪神国道(現在の国道2号)の建設の財源に充てることを考えた。この売却に応じたのが阪神電鉄。廃川敷地22万4,000坪(約74万m2)を410万円で購入した(1922年)7)。阪神電鉄は、開発を有効に進めるために枝川と申川に事業挟まれた三角形の土地も積極的に買収し、1935(昭和10)年頃には同社の開発地は42万4,900坪に達した。
幹部を欧米に送って著名な開発を視察させていた阪神電鉄は、ここを「遊覧地」と住宅地を組み合わせた開発を行うこととした。
その最初の取り組みは甲子園球場だった。アメリカの球場をモデルにわが国で最大の8万人規模のものを目指して、1924(大正13)年に3月に起工し8月に竣工式を挙行。この年の干支が甲子(きのえね)であったことから「甲子園大運動場」と名付けられた(後に「甲子園球場」に改名)。さっそく大阪朝日新聞社主催の全国中等学校野球大会が開催され、翌年からは大阪毎日新聞社主催の選抜中等学校野球大会もここで行われるようになって、甲子園は学生野球のメッカとなった。
夏の暑さに対処するため、内野スタンドに大鉄傘を建設し、どの客席からもグランドが見やすいようにスタンドの傾斜を放物線状にするという工夫もした。ラグビーや陸上競技にも使うことを考えていたため、グラウンドは三角形で、ポール際のコーナーが丸みを帯びるという形状で、中堅が119~120m、両翼が110mであるのに対して左右中間が128mもあるという過大なものになった。日米野球に出場したベーブ・ルースが”Too large”と驚いたという。水洗トイレなどの設備は当時の最先端であり、食堂で供されるカレーライスやコーヒーのハイカラさが評判になった。
甲子園球場は2024年に開設100周年を迎えた。その間、アルプススタンドの建設(1929(昭和4)年)と鉄傘の設置(31年)、外野スタンドの改装(36年)、金属供出のための鉄傘の取り外し(43年)とジュラルミン製の銀傘の復活(51年)などの経緯がある。第2次世界大戦の末期には焼夷弾の攻撃を受け、阪神・淡路大震災の被害もあったが、幸いにも致命的なものではなく修復により使用を継続できている。
甲子園球場の観客席は、アルプス席や外野席は盛土の上に設けている部分が多く、その周囲をエキスパンションジョイントを介した6棟が取り囲む形で構成されている(図2)。2007(平成19)年から10年にかけてスタンドの大規模な改修を行ったが、本球場の伝統を尊重し、既存躯体を生かして現代によみがえらせるリニューアル工事が選択された。工事では、耐震性の強化と耐久性の向上を目的に現行基準に適合するように耐震補強を行ったほか、観客席の快適さ向上、照明塔の移設と高さアップ及び銀傘の柱位置の後退などによる見やすさ向上、球場設備の充実を図った。外装はベルギー製の煉瓦を用いて補強した既存躯体の外に中空積みにし、工事に伴っていったんは撤去した外周を覆うツタは、元のツタの種や苗から復元した。
プレーヤーにとって諸設備以上に重要なのはグランドであろう。甲子園球場は廃川敷きに建設されたのでもともと水はけは良かったが、武庫川上流は花崗岩であるため発生する砂は白い。これでは白球を追うプレーヤーに不都合なので、甲子園球場では黒土と砂をおよそ半分ずつ混合した土を用い、これを約30cmの深さで掘り返して(これを「天地返し」という)弾力性を持たせ、イレギュラーバウンドを防いでいるという。さらに、表土の掻き起こしと転圧、散水、トンボかけ、芝刈りなどを、天候も考慮しながら毎日行っているそうだ。竣工時よりさまざまな工夫の積み重ねで確立されたグランド整備技術は、「神整備」と呼ばれる高度なものになっている。
阪神電鉄は、球場の開業にあわせて本線に臨時駅を設けている。翌年、本設の駅となり、観客輸送に大いに活躍した。甲子園線(後述)との立体交差のために、本線は埋立てられた枝川の跡地を橋梁で渡っており、2面4線からなる甲子園駅も橋梁の上に設置された。現在の駅舎は4代目だが、橋梁はこの時のものが今も使われている。
枝川橋梁は上路版桁橋であり、中央部と南北部の橋脚が低い部分に軌道を乗せ、高い橋脚の部分にホームがあった。2011(平成23)~17年に改良工事を行い、ホームが拡幅されて既存橋梁の両側に新たに軌道を受ける橋梁が架けられている。
また、現在は全体がコンクリートで巻きたてられているが、残されている図面からもとはこの時期としては非常に珍しい鉄骨造であることがわかっている。防錆及び衝突防護のためにコンクリートが施工されたものと思われるが、菱形の飾りを設けるなど高い装飾性を有している。
では、甲子園球場に続く地区の開発の状況を次に見ていくことにしよう。
甲子園の本格的な開発に先立って、阪神電鉄は、開発地の土砂運搬用として廃川敷に設置していた線路を活用して、1926(大正15)年7月、甲子園~甲子園浜に軌道を開業し、前年に開設した「甲子園海水浴場」の利用客の輸送手段として活用した。甲子園線である。甲子園線は大部分は路面電車だったが、甲子園駅付近では道路の東側に駅を設け、本線との乗り換えを容易にしていた。甲子園線は、甲子園の開発の進展に伴って、1928(昭和3)年に阪神国道線(27年7月に阪神国道電軌として開業)の上甲子園まで延伸し、30年には浜甲子園~中津浜間を開業している9)。
1928年、旧枝川河口付近を会場に「御大典記念国産振興阪神大博覧会」が開催された。球場の東に門があり、そこから細長い廃川敷き約17万坪に9,000坪あまりの建物を設けるという大がかりなイベントであった。「地方芸能館」・「物産館」などが特設されたが、そのうち2万坪は博覧会の終了後も阪神電鉄が「甲子園娯楽場」として恒常的に経営し、潮湯・映画館・食堂を中心とする余興場を運営した。32年には「阪神パーク」と改称し、敷地を拡張して設備を増強している。注目されるのは動物園だ。「お猿島」・「アシカの海」・「山羊の峰」などで動物を放し飼いにする生態展示が採用され、ゾウやライオンに芸を教えて「動物サーカス団」を結成した。飛行塔、メリーゴーランド、ミニ列車など遊具の充実も図った。結果、1日の来園者は1万8,000人を数え(34年)、最寄りの浜甲子園駅は大いに賑わった。室戸台風の被害から復興した35年には、ベルギーから取り寄せたガラスで建設した「世界一の大水槽」を擁する「阪神水族館」もオープンした。
野球場と並んで注目されるのは、庭球場の開設である。テニスはゴルフと並ぶモダンなスポーツとして人気があった。1926(大正15)年5月には日本とフィリピンのデビスカップ出場選手による試合が行われたが、1937(昭和12)年には庭球会館を併設した「甲子園国際庭球場」と、国際的な庭球人の養成をめざす「庭球寮」が開設された。その後もコートの増設が精力的に進められ、40年には102面を数えるに至った。庭球場では、出勤前の時間帯にテニスコートを開放して「早起きテニス会」を開催し、地域への普及にも貢献した。
1925(大正14)年に開設した「甲子園海水浴場」に加えて、1928(昭和3)年に「甲子園浜プール」(25m)の営業を開始した。阪神間で一般に開放された唯一のプールであったため、盛況であった。スイミングスクールである「甲子園水泳研究所」の練習所としても用いられた。プールについては、甲子園球場のアルプススタンドの階下を利用した日本で最初の一般向け温水プールである「甲子園室内プール」(25m)に次いで、1937年に球場の西に飛び込み用プールを併設した「甲子園水上競技場」(50m)を開設。ベルリンオリンピックで日本勢が活躍したのに刺激を受けて、国際大会を目指す選手が集まった。夜間照明や1万人収容のスタンドを備え、全日本選手権大会などの競技会が開かれた。
甲子園球場は当初は野球以外にも使う考えであったが、多機能グランドには不具合が生じるとして、1929(昭和4)年に「甲子園南運動場」を新たに建設。1万坪のなかに1周500m、直線200mのトラックを備え、芝生の張られたフィールドはラグビーやサッカーの正式競技場としての使用が可能であった。秩父宮夫妻の臨席のもと開会式が開かれ、その後は全国中等学校蹴球大会の会場として利用された。
また、阪神電鉄は、甲子園に大規模なホテルを計画していた。東京の帝国ホテルで常務をしていた林 愛作を招聘して担当させたが、林は社が想定していた甲子園浜での建設を好まなかったため、武庫川畔に用地を買い足して敷地とした。設計は、ライト10)のもとで帝国ホテルの設計に携わった遠藤 新。テラコッタ(素焼き)仕上げの美しい建物で、室内に外光を取り入れるのに意を用いているのが特徴だ。建物の南に設けた園地は武庫川堤防の松林と連続した庭園になっており、ちょっとした遊具も置かれていた。1930(昭和5)年4月に開業し、高松宮夫妻を始め関西を訪れる内外の要人が宿泊(当時の大阪には本格的なホテルがなかった)したほか、阪神間に住む中産階級の会合や会食にも利用された。
以上のようなスポーツ・レクリエーション施設の拡充と並行して住宅地の分譲も盛んに行った。1928(昭和3)年7月に「中甲子園経営地」において50区画を売り出したのを皮切りに、廃川敷きを造成した「上甲子園経営地」・「七番町経営地」・「浜甲子園経営地」で分譲が実施された。また、廃川敷き以外における事業として、旧枝川と申川の間の「浜甲子園健康住宅地」について大林組と土地委託経営契約を締結して約400戸の造成・分譲を行った。大林組は、宅地・道路・上下水道・緑地帯・日用品を扱う店舗・クラブハウス(集会所)・幼稚園などを整備した上で、31年に現地で「浜甲子園健康住宅実物博覧会」を開催して建売住宅の販売を行った。その中には日本建築協会が募集した懸賞11)に当選したモデル住宅も含まれていた。なお、販売パンフレットには関西画壇の重鎮、小出 楢重(明治20(1887)~昭和6(1931))がイラストと談話を寄せている。阪神電鉄も、分譲に合わせて甲子園線を中津浜まで延伸している。大林組は37年にクラブハウスと幼稚園を地域に寄付して事業を終えた。
甲子園の開発が成功を見た要因として、自然に恵まれた地を選定したこと、交通の便が良かったこと、資本力を有する電鉄会社による統合的な開発であり、人気の高いスポーツ施設群を開発の核としたこと等を挙げることができる。阪急電鉄が住宅・野球場・遊園地などを沿線に分散して配置したのに対し、これらを集中させた阪神電鉄の方針が的中したと言えよう。住宅地を売り出すに際しての会社の宣伝文にこれがよく現れているので、長くなるのを厭わず引用しておく。「本経営地は阪神間の中央、甲子園停留所を中心に、(中略)風光明媚にして空気清澄の秀麗の地、(中略)山海の絶景を一眸の裡に聚めたる理想的健康住宅地でありまして、夏期は涼風衣袂を吹きて海浜は海水浴に適し、然も経営地内には全日本の国民的熱血を沸かす大野球場を初めとし、双竜玉を争うラグビー、サッカー、あらゆる陸上競技がおこなわれる南運動場、水泳プール、テニスコート、遊園地さては運動を通じての社交場として知らるゝクラブハウス、建築と眺望の完備せる甲子園ホテル等がありまして、あらゆる文明の交通機関は縦横に馳駆し、大阪神戸へ廿分内外にて到し得られ、尚、経営地に接して小学校、中等学校、設備完備の病院等もあり、日常の物資亦た安価で且つ便宜に得られ、子女教育上将又保健衛生上から見ても理想的でありまして、自然の恩恵を併せ有する健康住宅地は之を措いて他に求むる事は出来ますまい。
しかし、時代の波は甲子園に高かった。1942(昭和17)年になると甲子園球場で開催されていた中等学校野球大会は中止。翌年には鉄傘が撤去され、球場は軍需工場や輸送隊の基地になった。甲子園ホテルは44年6月に川西航空機の施設に転用された後、7月には海軍病院に接収された。阪神パークと国際庭球場の用地は軍に強制的に買い上げられた。そして45年8月の空襲で大きな打撃を受け、戦後も甲子園球場、水上競技場、甲子園ホテルなどはGHQに接収される状態が続いた。やがて接収を解除された施設は阪神電鉄の手に戻るが、大規模な類似施設との競合、沿線人口の年齢構成の変化、娯楽の多様化などにさらされ、甲子園球場を除いて、徐々に経営は厳しさを増していった。阪神電鉄は、その経営資源を西梅田地区の再開発に集中させる途を選択するのである。
(参考文献)
1) 佐多は、自身が1907(明治40)年に芦屋(山手町)に別荘を建てるとともに、松風山荘住宅地の開発も行っている。
2) 1905(明治38)年に開設したが、砂質が悪く2年で廃止した。
3) 打出浜から移設した休憩所・食堂などの施設をもとに開設。1913(大正2)年には香櫨園(後述)から奏楽堂などを移設して充実を図るとともに、勝海舟が築造したという西宮砲台跡地の払い下げを受けてビアホールとして開放した。
4) 1907(明治40)年に開業した約8万坪に及ぶテーマパーク。事業を企画した香野 蔵治と櫨山 喜一から1字ずつをとった命名といわれる。大運動場・庭園・奏楽堂・ウォーターシュート・ホテルなどを開設した。盛況であったと伝えられるが、経費が多額に上り利益が少ないとして6年後に廃止された。動物園の動物は箕面有馬電気軌道が経営していた箕面動物園に移された。
5) 競馬場の施設を賃借して開設したもので、直線コース400m及び1周800mの陸上競技場とプール及び野球場を備えていた。フィールドにはテニスコートも設けられていた。野球場では1917(大正6)年から23年まで全国中等学校野球大会が開催されているが、人気の高まりとともに、同球場の仮設スタンドでは観客を収容しきれないという事態に至っている。
6) しかし、現実には、郊外生活は利便性の点で都会とはかなりの格差があったため、それを補うようなサービスも同時に展開している。阪神電鉄が刊行した月刊誌「郊外生活」(大正3年1月~4年11月)には、「従来、郊外生活の欠点としては、夜間交通の不便なると、付近に良医の乏しきと、郵便物集配の甚だ遅きと、諸式の高値とを挙げたるも、当沿線にては全く然らず候」として、夜間の交通需要のために深夜1時まで大阪発の電車を運転し、大阪市内と同じ新聞を配達するために1時半に新聞電車を発車させてこれは乗客も扱うとし、郵便の利便のためには西宮郵便局を開設し、駅に電車便のポストを置くとしている。「沿線には名医が居住し自宅診療に応じている」とも述べて医療面での不安の解消を図っている。さらに、沿線で経営する貸家に移り住む場合は家具を電車で無料で運搬し、分譲住宅購入者に1年間は無料定期券を贈呈するというサービスも行った。
7) 約310万円が武庫川改修に、約100万円が国道整備に用いられたという。
8) 浜甲子園~中津浜間は、正式には阪神電鉄出屋敷駅から海岸を回って今津駅に至る今津出屋敷線の一部であるが、上甲子園から中津浜まで通し運転されたため、ここでは甲子園線の一部として扱う。浜甲子園~中津浜間は太平洋戦争により廃止されたが、上甲子園~浜甲子園間は、戦後も浜甲子園団地の足として活躍した。しかし、1975(昭和50)年、阪神国道線の廃止により車庫を失うことから、住民の存続運動の中、甲子園線も廃止された。
9) フランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright、1867~1959年)は、ウィスコンシン大学マディソン校土木科を中退した後、建築設計事務所での勤務を経て1893年に独立した。幾何学的な装飾と水平線を強調した外観が特徴で、わが国に現存する作品として、旧帝国ホテル(明治村に移築)や旧山邑邸(ヨドコウ迎賓館)などが知られる。浮世絵の収集家としても著名。
10) 1929(昭和4)年に大阪毎日新聞社と東京日日新聞社が企画した健康増進運動の一環として行われた「健康住宅設計の懸賞募集」という企画。京都帝国大学教授 武田 五一(1872(明治5)~1938(昭和13)年)らが審査員となり、大林組の作品を含め10戸あまりが入選した。武田は、東京帝国大学工科大学を卒業して、京都高等工芸学校(現在の京都工芸繊維大学)、名古屋高等工業学校(現在の名古屋工業大学)の教授を歴任した後、1920(大正9)年に京都帝国大学建築学科教授に就任。アール・ヌーボー、セセッションなどの新しいデザインを導入し、「関西建築界の父」と呼ばれる。国会議事堂・京都府立図書館・同志社女子大学栄光館などの建築や、法隆寺・平等院などの修復に関わった。淀屋橋・桜宮橋・平野橋・葵橋・賀茂大橋・桜宮公園・円山公園などの設計にも関与した。
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