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土木遺産㉝ 広村堤防-津波の記憶を伝え続ける人々

土木遺産㉝ 広村堤防-津波の記憶を伝え続ける人々

2022.11.11

広村堤防の現在の姿

2015(平成27)年12月、国連総会で11月5日を世界津波の日とする決議が採択された。この日が選ばれたのは、1854(嘉永7)年11月5日の安政南海地震の津波に襲われたときに紀伊国有田郡広村にあった実話に基づくものだ。これを子ども向きに書き直した教材1)が1937(昭和12)年から10年間「稲むらの火」として「小学国語読本 巻十」(5学年用)に掲載され、これを学んだ約1,000万人の学童に大きな感銘を与えたという。

地震の当夜、濱口儀兵衛家(現在のヤマサ醤油)の当主であった濱口 梧陵(1820(文政3)~1885(明治18)年)は、津波に襲われて暗闇の中を逃げまどう人のために稲むらに火を放って誘導したほか、隣村から50石の米を借りて寺に炊き出しを依頼した。翌日からは、村役人を鞭撻して治安の維持に当たらせるとともに、自らが200俵の米を供出して有志に寄付を呼びかけそれでもって藁ぶきの仮小屋50棟を建て生活物資や農具を配給するなど、寝食を忘れて活躍した。しかし、余りの被害の大きさに、復旧をあきらめ村を出ようとする者も多かったようだ。

これを見た梧陵は、根本的な救済が必要であると考え、津波防止の堤防を築くことを決意する。

図1 耐久中学校に建つ濱口 梧陵像

広村は何度も津波対策が施されてきたところで、古く室町時代の1399(応永6)年に畠山氏により高さ1間半 (約2.7m)、長さ400間(約720m)の石垣が建設されていた2)。梧陵は、その背後に高さ2間半(約4.5m)、長さ370間(約670m)の堤防を築いたのだった。翌年の2月から着工し、農閑期に1日400~500人を雇用しその日のうちに日当を支払ったので、生活に苦しんでいた者も安堵して離村を思いとどまったということだ。工事に要した1,572両(現在価格で約4億円に相当)は、すべて梧陵が調達した。

図2 広村堤防の断面

広村にはその後も津波が襲う。梧陵の死から28年後、1913(大正2)年に広村に津波が来た時、梧陵が築いた堤防は立派に波を防ぎ広村は被害から免れた。1944(昭和19)年の昭和東南海地震3)による津波にも広村堤防はその役割を果たした。46年の昭和南海地震4)の際にも堤防は人々を津波から守ったが、堤防のない地域では22人の死者が出た。

梧陵が点けた稲むらの火を、広村の人々は津波防災の象徴として灯し続けている。安政南海地震から50年後の1903(明治36)年の11月5日、安政東南海地震の津波の犠牲者の霊を慰めるとともに防波堤を築いた濱口 梧陵の偉業に感謝して、広村の有志が堤防に土を盛る祭事を行った。今に続く津浪祭の始まりである。1930(昭和5)年には堤防の中ほどに「感恩碑」が建立され、津浪祭に除幕式が行われた。今も津浪祭では感恩碑の前で小中学生が堤防に土を盛るセレモニーを行う。また、2007(平成19)年に濱口梧陵記念館と津波防災教育センターから成る稲むらの火の館がオープンしている。

世界津波の日は、伝統的知識の活用などにより津波に対する意識を向上させるとともに、早期の警報による迅速な情報共有の重要性を認識することで災害に備えようというものだ。この日に各国で津波への備えを啓発する活動が展開されるだろう。

災害の記憶を啓発し続けることは大切だ。同時に、梧陵がしたように、防災のためのハード整備も続けていかねばならない。その着実な投資を時間をかけて続けていくためには、眼前の課題だけに振り回されない国民の腰の据わった防災意識が根付かねばならない。

耐久社(梧陵らが設立した人材育成施設)
感恩碑

稲むらの火の館
東濱口公園(東濱口家安政蔵)
濱口 梧陵の墓

梧陵濱口君碑
図3 濱口 梧陵に関する事跡

 

1) 小学校の教員をしていた中井 常蔵が文部省の教材公募に応募して入選・採択された作品で、そのあらすじは次のとおり。村の高台に住む庄屋の五兵衛は、これまで経験したことのない長周期の地震に胸騒ぎを感じて家から出て、海水が沖へ引いて行くのを見て津波の襲来を予知する。しかし、村人は祭りの準備に心奪われてそれに気づいていない。危険を知らせるため、五兵衛は自分の田に積まれた刈り取ったばかりの稲むらに次々と火をつける。危急を知った村人が消火のために高台に駆け上がって来る。五兵衛が集まった村人の数を数え終えた時、沖合に津波が現れ、それが二度三度と村を襲う。稲むらの火によって救われたことに気付いた村人は、無言のまま五兵衛の前にひざまずいてしまった。

2) この石垣は、コンクリートで補強して現在も防災に活用されている。表題の写真で左方に見えるのがそれ。

3) 1944(昭和19)年12月7日午後1時36分に発生した地震。マグニチュード7.9と推定される。震源域は熊野灘から浜名湖沖までの広い範囲に及ぶと考えられる。軍の情報統制により詳細は不明だが、御前崎市や津市のほか震源から離れた諏訪市でも震度6を記録し、東海道線で貨物列車が脱線転覆、半田市の中島飛行機などの軍需工場の被害も大きかったとされている。死者・行方不明者は1,223名と推定されている。

4) 1946(昭和21)年12月21日午前4時19分に発生した、潮岬沖から室戸岬沖を震源域とするマグニチュード8.0の地震。西大寺(岡山県)・津田(香川県)・郡家(兵庫県淡路島)・野根(高知県)・五郷(和歌山県)などで震度6を観測した。死者・行方不明者1,330名を数える。なお、先年の昭和東南海地震の後、東京大学教授 今村 明恒(1870(明治3)~1948(昭和23年)が、安政東南海地震が東海沖と南海沖の2つの地震が連動していることとの比較から南海地震の発生を警告していたが、当時は氏の説に理解を示す者はなかった。今村は、地震学者として研究に携わるとともに防災の啓発にも熱心で、津波被害を防ぐには子どもの頃からの防災教育が大切と訴えて「稲むらの火」の教科書登載を勧めた。

 

(出典) 「関西の公共事業・土木遺産探訪<第3集>」 p2

※上記の図書は書店では扱っておりません。お求めはこちらをご覧ください。

(一財)阪神高速先進技術研究所 書籍販売

 

筆者:坂下 泰幸

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