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土木遺産㊲ 毛馬第一閘門・旧毛馬洗堰

土木遺産㊲ 毛馬第一閘門・旧毛馬洗堰

2023.3.16

閘室と前後の鉄扉が保存されている旧毛馬閘門

 

大阪は淀川の河口に開けた港湾都市として発展してきたと言えるが、一方では洪水にも悩まされてきた。近世に入って、安治川の開削(1684(貞享元)年)や大和川の分離(1704(宝永元年)などの治水事業が行われたが、それでも洪水の被害から免れることはなかった。1885(明治18)年の洪水では、大阪府の約20%にあたる151.4km2が浸水し、流失または損壊した家屋が約1万6,500戸、橋の流出が天神橋や天満橋を含む31橋にのぼった。

この惨状を見て、淀川を何とかしなくてはならないと考えた人がいた。大橋房太郎だ。現在の鶴見区放出(はなてん)に生まれた大橋は、東京で法律家を目指していたが、一面が泥の海になった故郷を見て法律家への夢を絶ち、大阪府会議員になって国に淀川改修の必要を訴え続けた。日清戦争のあおりで遅れはしたが、功成って1896(明治29)年に河川法をはじめ淀川の河川改修に係る法案が可決。貴族院の傍聴席にいた大橋が「淀川万歳!」と連呼して警吏に退席させられたという逸話が伝わる。

同年からはじまる「淀川改良工事」は、第4区土木監督署長であった沖野忠雄(1854(安政元)~1921(大正10))の指導により進められた。沖野は豊岡市大磯に生まれ、1870(明治3)年に藩の貢進生として大学南校(現在の東京大学)に入学してフランス語を学んだ後、75年から6年間 文部省留学生としてパリのエコール・サントラール(中央工科大学)に留学して土木建築工師の免許を得ていた。帰朝してしばらく職工学校で教えていたが、内務省に異動になって全国の河川治水に携わることとなる。

図1 淀川河川公園(長柄河畔地区)にある沖野忠雄の像

 

淀川改良工事の内容は多岐にわたるが、本稿では新淀川の開削とそれに関連する毛馬洗堰と毛馬閘門について述べよう。

 

もともと淀川は長柄付近で大川と中津川に分かれそれぞれが蛇行しつつ河口付近で多くの派流を生じていた(図2上)。これをほぼ直線の河道でもって大阪湾まで導くべく新淀川が計画された。工事に要する1,146町歩の買収は困難が予想されたが、地権者の罵声を浴びながらも大橋府議らが用地職員とともに熱心に説得に当たった結果、全体としては円滑な取得ができた。新淀川は、計画高水流量を5,560m3/秒として、水面勾配が1/3,000~1/4,000になるように設計され、川幅は300間(545m)から500間(818m)に及んだ。また、堤防は天端幅3間(5.45m)で両法の勾配は2割(1:2)とした。堤防の高さは計画高水位に3尺(0.91m)の余裕を見込んだ。

図2 新淀川開削前(上)と開削後(下)の淀川(明治18年及び41年測量の国土地理院旧版地図による、着色と河川名の記入は筆者)

 

新淀川の開削工事は、まず、これに沿って計画されている長柄運河の開削から始まった。長柄運河は、新淀川によって分断される中津川の下流に連なる伝法川・正蓮寺川・六軒家川などに給水するとともに、新淀川以南の地域における潅漑などの利水に対応すべく計画されていたが、新淀川の開削に伴って排出される不用土砂を河口に運ぶのに利用できると考えられたからである(実際には、不用土は地元の請願により周辺の低湿地の盤上げに転用され、捨土は少なかった)。新淀川の本流の工事には98年度から着手した。沖野のフランスでの知見を踏まえ、わが国で初めて大規模な機械施工が取り入れられた。当時、建設機械は国内では製造されておらず、3名の技師を各国に派遣して視察・購入させた。

新淀川と在来の河川との分合流部には樋門や閘門が設けられたが、そのうち最大のものは大川との分岐点にある毛馬洗堰と毛馬閘門であった。洗堰は、幅3.64mの水通しを10門有する総幅52.72mの規模で、両側壁と9本の堰柱に縦溝を設けここに角材を落とし込んで流水を調節するものであった。閘門は、水位差のある新淀川と大川の間を船が往来するのに用いる施設で、有効長81.81m、幅10.91mで、前後に1対の鉄製の扉をつけた。いずれもレンガ積みとし、要所に石材を配した。

 

日露戦争に伴う中断はあったものの、1909(明治42)年6月、淀川改良工事の主要な施設が完成し盛大な竣工式が毛馬で開かれた。時の大阪府知事 高崎 親章の式辞に続いて各界の来賓から祝辞が述べられたが、中でも一貫して淀川改修運動を続けてきた大橋の弁は参会者の胸を打ったという。このとき建てられた碑は今も淀川河川公園にそびえる。

毛馬洗堰と毛馬閘門が、淀川改良工事の代表的遺構として、2008(平成20)年に国の重要文化財に指定された。当時の洗堰と閘門は、1974(昭和49)年に完成した現在の洗堰と閘門に役割を譲っている。

旧毛馬閘門は、1907(明治40)年8月に完成し1976(昭和51)年1月まで使用された。前扉と後扉との間で1mほど河床の差がある。旧毛馬閘門は1918(大正7)年に毛馬第二閘門ができてからは毛馬第一閘門と呼ばれ、船の通行のための水位調整機能は第二閘門に譲り、高水時に閉扉して洪水を防ぐ役割を負うことになった。閘門の鉄扉は観音開きのマイターゲート形式であったが、扉の開閉の迅速のため1929(昭和4)年に上下に開閉するストーニーゲート形式の制水扉が追加されている。

図3 毛馬第一閘門に残されているマイターゲート(上)とストーニーゲート(下)の2種の制水扉

 

旧毛馬洗堰は、操作に要する労働力の軽減と急激な水位の変化への対応のため1961(昭和36)年に鋼鉄製電動扉に変えられ、64年には自動制御ができるよう改良が加えられている。74年に廃止された。81年に設置された毛馬排水場1)に支障したため、10門のうち3門だけが保存されている。

図4 一部が残されている旧毛馬洗堰

 

毛馬第二閘門は、大川の浚渫により水位が著しく下がったため、第一閘門に替わって水位調整の機能を負うべく建設された。規模は第一閘門と同等である。現在は、閘室と大川に面する扉を利用して毛馬出張所の艇庫に転用されている。

 

1)毛馬排水機場は、高潮や洪水の際に大阪市中心部を囲む水門などを閉じた際にも大川の水位を保つために、寝屋川等から大川に流入する水を新淀川に排出する施設。最大330t/秒の排水能力を持つ。

 

(出典) 「関西の公共事業・土木遺産探訪<第3集>」 p121

※上記の図書は書店では扱っておりません。お求めはこちらをご覧ください。

(一財)阪神高速先進技術研究所 書籍販売

筆者:坂下 泰幸

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