2021.11.4
沖積平野に広がる大阪の町では、井戸水は一部を除いて水質が良くないため、飲用には川の水を汲んで使っていた。江戸時代には川筋の随所に水汲み場があったようで、そこで採取した水を各戸まで運んでいた。一方、家庭から出る排水も市街地を縦横に流れる堀川に流れ込んでいたため、次第に川水の汚染が進行するのは必定である。1879(明治12)年にコレラの流行があり、その後は天満橋上流を除いて川水の採取が禁じられた。
そのため上水道の要望が強まり、92年から大阪市の上水道事業が開始された。完成は95年。水源を大川(旧淀川)左岸の桜の宮に求め、ここで浄化した水を大阪城内に設けた大手前配水池に揚水した。ここからは自然流下で市内に配水できた。配水管の延長は316.98kmであった。当時は国内に管を作る技術がなく輸入するしかなかったが、高額であったので国産に切り替えることとし陸軍大阪砲兵工廠に製造を依頼した。大砲製造技術を転用しようというのである。しかし、工廠の不慣れと日清戦争の勃発(94年)のために必要量の生産が追い付かず、不足分の管は英国から購入せざるを得なかった。とはいえ、この国産技術はその後の大阪がものづくりで発展していく一つの要因となっている。
97年の大阪市の第1次市域拡張や日清戦争後を契機とする商工業の著しい伸張により、大阪市は新たな水源を新淀川右岸の柴島(くにじま)に求めてここに浄水場を建設し(1914(大正3)年完成)、桜の宮水源地は15年に稼働を止めた。しかし、大阪城内に建設された水道施設は、多くの観光客が訪れる大阪城の一角で今も清澄な水を供給し続けている。
図-1 大阪市の最初期の水道システム
筆者:坂下 泰幸
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