2021.3.31
九頭竜川の河口に発達した三国は日本海側の要港だ。だが九頭竜川は「崩れ川」が転訛したともいわれるほど土砂流出の多い川で、三国港は河口閉塞に悩まされて続けてきた。県はこの解決を国に要請し、これに応じて1876(明治9)年にオランダ人工師エッセル1)(George Arnold Escher、1845~1939年)が派遣された。彼は九頭竜川の上流から海岸まで踏査し、三国港を救う最適な案を導いた。それは河口の右岸から大きく弧を描いて伸びる突堤だったのである。九頭竜川が海に入ってからもなお左に湾曲して流れ続けるように制御することにより河口付近で定常的に右岸側の流速を早め、港への土砂の堆積を防止しようとしたのだろう。しかもこの突堤は冬季の北西季節風に伴う風波を遮る機能をも持っていた。
6人の豪商が発起人となって78年5月に突堤の工事が始められた。突堤の長さは511m、幅は約9m。エッセルはオランダに帰国したためデ・レーケ2)( Johannis de Rijke、1842~1913年)が仕事を引き継いだ。粗朶沈床3)(そだちんしょう)を基礎とし、その上に東尋坊付近で採った巨石を乗せて安定させる工法だった。日本海の荒波に工事は難航し、沈床の破壊や機材の流出などの被害を受けること28回。最終的に工費は当初見込みの10倍の約30万円(現在価格にして約40億円)にふくれあがった。すべて完成したのは87年11月。三国港突堤というのが正式な名だが、人々は設計者の名を冠してエッセル堤と呼んだ。
この修築事業は、わが国近代化への貢献度と土木技術史上の価値が高いという理由で2003(平成15)年に国の重要文化財に指定され、さらに04年に土木学会選奨土木遺産に、09年には経済産業省近代化産業遺産にそれぞれ認定された。
1)オランダのデルフト王立アカデミー学んだあとオランダ内務省土木局で幹部候補生として勤務した。やがて日本に興味を持つようになり、自ら志願して1873(明治6)年に赴任し、明治政府の求めに応じて三国港のほか淀川改修などの土木事業を指導した。帰国後は高級官僚としての生涯を全うしたという。滞日期間は5年と短かったが、その人柄は強烈な印象を残した。
2)オランダの築堤職人の子として生まれる。エッセルと同時に来日して淀川改修や三国港改修などに関わった。後に実力ある日本人技術者の台頭により活躍の範囲は狭まったものの、1903年に帰国するまで30年にわたって指導を続け、勅任官技術顧問にまで昇進した。
3)小枝や蔓草を使って大きなマットのようなもの作り、これを重ねて水底に沈めたもの。
筆者:坂下 泰幸
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