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土木遺産㉗ 春日野道の遺構 桜橋

土木遺産㉗ 春日野道の遺構 桜橋

土木遺産㉗ 春日野道の遺構 桜橋

2022.5.24

河野川に架かる桜橋、福井県から北陸地方には珍しい石造アーチ橋である

 

春日野道とは1886(明治19)年に武生(越前市)~敦賀間に開通した車道(くるまみち)である。ここで車というのは、当時 県内に3,000台あったとされる荷車のこと。荷車の通行が可能なように幅員は3間(約5.5m)で、等高線に沿って著しく屈曲しながら峠を越えた。

この道路が計画された理由は2つあった。ひとつは福井県の県土と人心の一体化のためだ。福井県は若狭国と越前国を合わせたものだが、それぞれが文化と歴史を持っているところに加えて、廃藩置県のあと数度にわたる県域の変更があったため、対立感情が残っていた。このような状況で県令に就任した石黒 務は、交通網を整備して県内の交流を深める必要があると考え、車道の整備のために地方費9万7,000余円、寄付金3万9,000余円に加えて国庫補助6万6,000余円を国に求めた。当時の国道は武生から栃ノ木峠を経て滋賀県に至っていたが、それに替えてこちらを国道にしたいと考えたからであった。

もうひとつの理由は福井の経済界にあった。東京と神戸を結ぶ鉄道から分岐して、難工事の末に敦賀の金ヶ崎(後の敦賀港(みなと))に鉄道が達したのが1884年。しかし、そこから福井方面への延伸はなかなか実現しそうになかった。福井の実業家にとって、鉄道が通じている敦賀までの道路の敷設は産業振興に不可欠の物流網の整備を意味した。知事が見込んでいた寄付金とは、伊藤 真が率いる福井商法会議所(商工会議所の前身)が道路の改修を目的に募ったものだったのだ。

完成した春日野道は、県の期待どおり1904年の内務省告示において国道53号となり、1919(大正8)年に制定された(旧)道路法のもとで国道12号に改称され1952(昭和27)年の(新)道路法のもとで新潟を起点とし京都を終点とする国道8号となった。

図-1 春日野道のルート

 

同年に制定された道路整備特別措置法により有料道路制度の活用が可能となった。著しく屈曲した春日野道の区間には、武生~具谷間7.6kmについて武生有料道路が、大谷~杉津(すいづ)間5.2kmについて敦賀有料道路がそれぞれ事業化され、有料道路に挟まれた区間は直轄事業により改良が進められた。2本の有料道路は計画を大幅に上回る交通量により料金徴収期間を短縮して1968年1月及び1972年12月にそれぞれ無料開放している。これにより春日野道を通る車は事実上なくなり、その歴史的な役割を終えた。

図-2 残存している春日野道の現況(春日野峠南麓)

 

春日野道には国道の敷地に取り込まれている区間も多いが、かつての姿を残す区間もある。その遺構のうち最もアプローチしやすいのは、南越前町にある桜橋である。JR北陸本線王子保(おうしお)駅から福井鉄道バスに乗り、桜橋バス停から運動公園に至り、階段を河野川に降りる。河原から見上げると、両岸から巨岩が張り出して川幅が最も狭くなったところをねらって架橋されていることがよくわかる。露出した岩塊を基礎にし、やや小さめの石を積み上げた端正な趣の石造アーチ橋で、要石も目立つほどの大きさはない。アーチのすぐ上に帯石があって、その上1mくらいも谷積みの石積みになっており、かなり重厚な印象を与える。

石造アーチ橋は福井県以北の北陸地方には珍しいということだ。本橋は大阪の藤田組が施工したもので、同社が参画した鉄道事業の経験が生かされているのではなかろうか。南越前町の指定文化財になっている。教育委員会が傍らに石標を建てて本橋について解説しており、橋長20.7m、幅員6.1mという値が示されている。

図-3 教育委員会による解説

 

 

筆者:坂下 泰幸

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