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土木遺産㊷ 樫野埼灯台-トルコとの友好関係の原点

土木遺産㊷ 樫野埼灯台-トルコとの友好関係の原点

2023.9.15

白い塗装がまぶしい樫野埼灯台

 

「ジオパーク(Geopark)」とは「地質学的重要性を有するサイトや景観が、保護・教育・持続可能な開発が一体となった概念によって管理された、単一の、統合された地理的領域」と説明されているが、要するに科学的に重要で美しい地質遺産を含む一種の自然公園である。ここから地球の歴史を知ることができるだけでなく、地域の人の暮らしや文化に触れることもできる。わが国には46地域のジオパークが認定されており1)、近畿地方には、京都府・兵庫県・鳥取県にまたがる「山陰海岸」と和歌山県・奈良県にまたがる「南紀熊野」が存する。

このうち、南紀熊野ジオパークで特徴的な景観のひとつが串本町にある「橋杭岩」だ(図1)。巾約15mの橋脚のような岩塔が約850mにわたって直線状に並んでいる。約1,500~1,400万年前にあった激しい火山活動において、堆積岩にマグマが貫入してできたもの。その後、堆積岩が侵食されてマグマに由来する流紋岩が露出しているのである。

図1 橋脚のような岩塔が約850mに渡って並ぶ橋杭岩

 

この流紋岩が海岸に現れた場合断崖絶壁と表現されるきわめて切り立った地形を呈し、海中には峻険な岩礁が屹立する。同じ串本町にあって紀伊大島の樫野付近に見られる海金剛から樫野崎に至る海岸がこの例だ(図2)。

図2 海金剛から望む樫野埼灯台、間に広がる岩礁が船甲羅

 

よって、樫野埼沖の航行には注意が必要である。海の安全を守るため樫野崎の突端に建つのが「樫野埼灯台」だ。すでに別稿で紹介したように、わが国は慶応2(1866)年に英・米・仏・蘭と結んだ「改税約書」において樫野埼灯台を含む8箇所の灯台の建設を約していた。1866(明治元)年、灯台建設主任技術者としてイギリスからブラントン(Richard Henry Brunton、1841~1901年)が明治政府に招かれ来日。彼が日本で最初に手掛けたのが樫野埼灯台だった。初点灯は1870(明治3)年。

図3 英語と日本語で初点灯日を記した銘板

 

その樫野崎で船舶の遭難事件が起こったのは1890(明治23)年9月16日のことだった。親善のために日本を訪れていたオスマントルコの軍艦「エルトゥールル号(Ertuğrul Fırkateyni)」が悪天候の中で「船甲羅」と呼ばれる岩礁に衝突し、650人以上の乗員が海に投げ出されてしまった。灯台を目指して10名ほどが断崖を這い登って救助を求め、通報を受けた樫野の住民は遭難者の救出と生存者の救護にあたった。その結果、69名が生還に成功した。決して豊かな村ではなかったが、浴衣などの衣類はもとより米・卵・鶏などを供出し、灯台建設に当たったイギリス人が残したフライパンを使って洋食を提供したという。

この遭難事件はオスマントルコ国内で衝撃を持って報道され、併せて村民による救助活動も大きく伝えられた。これを契機にトルコの人々は日本に対して親近感を持つようになったという。1985(昭和60)年のイラン・イラク戦争で、イランから脱出できない日本人をトルコ航空機が自国民よりも優先して退避させた判断は、エルトゥールル号のことがあったからだ。

遭難の翌年に和歌山県知事を始め有志の義金により遭難者の墓碑と追悼碑が建立されていたが、昭和天皇の行幸(1929(昭和4)年)を聞いたトルコ共和国初代大統領のケマル・アタチュルク(Mustafa Kemal Atatürk、1881~1938年)が新しい弔魂碑を建てることを決定し、現在の立派な「トルコ軍艦遭難慰霊碑」に改修された。5年ごとに慰霊祭が行われる。また、1974(昭和49)年には串本町が「トルコ記念館」を建て、エルトゥールル号の模型や乗員の遺品、トルコ政府からの寄贈品などを展示している。さらに、2010(平成22)年にはケマル・アタチュルク大統領の騎馬像が当地に移設され、日土友好の原点である樫野崎沖を望んでいる。

図4 トルコとの友好関係を示す構造物群、左からトルコ軍艦遭難慰霊碑、トルコ記念館、ケマル・アタチュルク大統領の騎馬像

 

樫野埼灯台は建設以来150余年の風雪に耐え、現役で活躍する最古の洋式灯台となっている。高さが14.6mあり、20秒ごとに2閃光するという。第2等フレネル式レンズを使い53万カンデラの光度で18.5海里(約34km)先まで届く。もともと日本で最初に反射器レンズを使用した回転式閃光灯台であったが、その後、扱いの難しさや価格の高さなどの理由でフレネル式レンズに替えられ、それを動かす水銀槽式回転装置が今も残っていると言う。水銀槽式回転装置というのは、重いレンズを水銀の入った水槽に浮かべることで、小さな力で安定して光源を回転させることができるというものだ。

また、樫野埼灯台は、わが国で最初の石造灯台としても知られている。石材は古座川町宇津木から切り出され、船で古座川を下って古座まで運ばれ、さらに海を渡り現地に運ばれた(串本町史編さん委員会「串本町史 通史編」)。1個の重さが千貫(約4t)~百貫くらいあり、150人の石工で切り出したと言う。宇津木石は火成岩としては比較的柔らかく加工しやすいそうだ。ただし、現在は白く塗装され石の表面を観察することはできない2)

灯台に隣接する旧官舎も宇津木石でできており、わが国最古の石造灯台官舎である。海に面した側は白く塗られているが、他の面は石材が表面に現れており、整形した石を布積みにしていることがわかる。当初は外国人技師らが灯台の管理業務にあたっていたが、1876(明治 9)年頃からは日本人に引き継がれ、昭和45(1970)年に灯台が自動点灯となるまでここに灯台守が常駐していた。2010(平成22)年から改修が行われ、竣工当時の部材をできるだけ使い、保存できるものは現状のまま残す処理が行われた。この建物の特徴は内部に「木目塗り(graining)」が施されていることだ。欧米では現在でも家具や建具の木部に用いられているそうで、筆やへらで木目を描く装飾法である。旧官舎では、ドアや窓枠などの木部だけでなく、漆喰壁にも高さ約3m、幅約15cmの板張りに似せた木目塗りが施されていることが、改修工事で発見された。

図5 端正な布積み切石と縦長窓が特徴的な樫野埼灯台旧官舎

 

和歌山県の調査などにより、初期の構造物が良好に保存されていることに加えてエルトゥールル号遭難事件で重要な役割を果たしたこの灯台の価値が認識され、2016(平成28)年に灯台の光学系機械装置が機械遺産に、翌年に灯台が土木学会選奨土木遺産に認定されたのを始め、2021(令和3)年には灯台・官舎及びエルトゥールル号の海難事故に関する遺跡が国の史跡に指定された。現役の灯台が史跡になるのは初めてのことだ。日土友好の歴史を紡ぎながら海上の安全を見守り続けている。

 

(参考文献) 和歌山県教育委員会「樫野埼灯台・官舎及びエルトゥールル号事件に関する調査研究報告書

 

1) 「日本ジオパーク委員会」が国内で認定した46の「日本ジオパーク」のうち、洞爺湖有珠山(北海道)、糸魚川(新潟県)、山陰海岸(鳥取、兵庫、京都)、室戸(高知県)、島原半島(長崎県)、隠岐(島根県)、阿蘇(熊本県)、アポイ岳(北海道)、伊豆半島(静岡県)、白山手取川(石川県)の10地域は、ユネスコの機関である「世界ジオパークネットワーク(GGN)」の審査を受けて「世界ジオパーク」となっている。

2) 樫野埼灯台は、設置時は石面が見えたようだが、明治5年にはすでに漆喰が塗られて白色になっていた(灯台研究生「明治の灯台の話(65) 男木島灯台」(「灯光」第66巻第3号所収))。塗装されるようになった時期は不明。

 

 

 

 

 

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