2022.2.28
「雉も鳴かずば撃たれまい」ということわざは、長柄橋の人柱となった巌(いわ)氏の娘が詠んだ歌にもとづく。この伝説は推古天皇(在位592?~628年)の世のことらしいが、果たしてこの時に本当に架けられたかは明らかでない。孝徳天皇(在位645~654年)の時代に長柄豊崎宮へのアクセスとして架けられたという説や、行基による架橋という説もある。確実性が高いのは「日本後記」嵯峨天皇の条に見える「弘仁三年六月己丑に使いを遣わして摂津国の長柄橋を造る」という記事である。なお、「文徳実録」によれば、812(弘仁3)年に架けられたこの橋は853(仁寿3)年にはすでに断絶しており、代わりに渡しを配置したという。 以後、再架橋した記録は見られないようだ。しかし、流失から3世紀も経た平安後期から中世にかけて、貴族階級の文学においては、実像は明らかでないままに比類のない名橋として伝承された。朽ちた杭に没落したわが身を重ね、かつての華やかだった時代を追慕するという内容のものが多い。
長く断絶していた長柄橋の名が復活するのはそれから千年余りを経た1909(明治42)年のことである。新淀川の開削に伴って大阪府道大阪吹田線に架橋されることになった。橋長370間8分(約674m)、有効幅員3間(約5.5m)で、これには大阪~神戸間の鉄道に架かっていた「下十三橋」の錬鉄製70ft(約21.3m)ポニーワーレントラス22構が転用されたことが知られている。2代目の長柄橋は1935(昭和10)の架設。橋長656m、幅員20mで、上部工は上路ゲルバー式鋼鈑桁橋であった。第2次大戦末期の45年6月7日に爆撃を受けて橋の下に避難していた400人以上が犠牲になった。橋も損傷したが補修して使われ続けた。戦後の自動車交通の増大により長柄橋北詰交差点の渋滞が著しくなったため、長柄橋の途中から分岐する「長柄バイパス」が64年に建設された。北行き車線の右折交通を立体交差させるもので、大阪で最初の鋼床版連続曲線箱桁橋である。曲線半径40mというのはこの時期としては珍しい。現在の長柄橋は3代目で83年の完成。橋長656.4m、幅員20.0mを有し、68.9+74.0+74.0+75.2mの4径間連続鋼床版橋、153.0mのニールセンローゼ橋、74.8mの単純鋼床版桁橋、69.4+60.7mの2径間連続鋼床版桁橋から成る。
伝説・伝承の多い長柄橋にはそれを記憶する石碑類が多い。現地で観察されてはいかがだろうか。
筆者:坂下 泰幸
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