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土木遺産㊶ 大津市に残る明治13年開業の鉄道遺構

土木遺産㊶ 大津市に残る明治13年開業の鉄道遺構

2023.8.16

鉄道記念物として保存されている旧逢坂山ずい道東坑口

 

函館五稜郭の陥落(1869(明治2)年)によって政権を握った明治政府は、「富国強兵」をスローガンに近代国家建設に邁進するのだが、その重要な施策が鉄道の敷設であった。72年に開通した新橋~横浜間に続いて74年に神戸~大阪間が開通した。これを東京まで結ぶべく建設が続けられ、大阪~京都間が73年に着工されて77年に開通。さらに京都~大津間が78年に着工された。翌年に京都から稲荷を経て大谷までが開通し、1880(明治13)年に大谷から馬場(現在の膳所)でスイッチバックして大津(現在のびわ湖浜大津)までが開通したのである。大谷以東が遅れたのは、ここに逢坂山ずい道を掘る必要があったためだ。

図1 大津に残る1880(明治13)年開業の鉄道のルートと主な遺構

 

逢坂山ずい道は延長644.8m、高さ4.7m、幅4.2mのわが国の鉄道で最初の山岳トンネル1)であると同時に、日本人だけによるトンネルとしても最初のものであった。「工技生養成所」で技術者の育成に当たっていた飯田 俊徳2)を総監督に起用し、生野銀山の坑夫らが手掘りで掘削したという。工技生養成所とは、当時 大阪駅構内に設けられていた教育施設で、鉄道建設における日本人の技術的自立を目指して開設していたものだ。

東海道線のうちでも京都~馬場間はSLの限界とされる25‰の急勾配が連続し極端にスピードが落ちることから輸送上のネックとなっており、優先して複線化する必要性は当初から想定されていた。97年3月に京都~大谷間に下り線が、98年4月に大谷~馬場間に上り線が増設され、この時、逢坂山ずい道も新たにもう1本掘られた。このような改良が加えられても、鉄道輸送が本格化するにつれやはり急勾配の克服が課題となり、京都からまっすぐ東山トンネル(1,865m)と新逢坂山トンネル(2,325m)により馬場に達するルートが計画されて、1921(大正10)年に開通した。これにより当該区間は4.5km短縮するとともに最大勾配が10‰に緩和され、輸送力強化に大いに役立った。同時に、もとの逢坂山ずい道は約40年で鉄道としての使命を終える。総監督だった飯田は時に74才。その2年後に亡くなった。

図2 トンネルに掲げられている三条実美の揮毫による扁額

 

旧逢坂山ずい道の東坑口(図1①)は、京阪京津線の上栄町駅から県道高島大津線号を京都方向に5分ほど歩いたところにある。2本のトンネルのうち左側のが当初のもので、右側のトンネルが上り線用として建設されて以降は下り線に使われた。花こう岩を組み合わせた坑門は苔むしており、上部には時の太政大臣三条実美が揮毫した「楽成頼功」の扁額がかかっている。工事関係者の功により落成したという意味らしいが、「落」の字を忌んで「楽」の字を用いた。坑内は煉瓦で覆工され、見上げるとその表面は煤煙で黒ずんでいる。上半部は、曲面でも奥まで密に煉瓦を配置でき地質の変化に応じて巻き厚を変えやすい長手積み3)、側壁部は強度的に優れているとされるイギリス積み3)を採用している。

図3 白線で示した起拱線を境に上は長手積み、下はイギリス積みを採用している

 

県道高島大津線を戻ると、京津線に面して大きな煉瓦積みの擁壁(②)が見える。もとは橋台であった。もちろんイギリス積みである。複線断面の大きな橋台であるが、右半が当初の構造物である。

ここから大津駅付近までの線路敷きは国道1号に転用されている。その盛土の下にある音羽台1号橋(③)は みごとなねじりまんぽ4)であり、鉄道建設時に遡る構造物であると考えられる。

図4 京阪京津線に面する鉄道時代の橋台      図5 煉瓦が渦巻いて積まれているように見える音羽台1号橋

 

 

当初の鉄道が、馬場駅で折り返して湖岸に大津駅を設けていたのは、ここで汽船に連絡して長浜と結ぶためだった。ところが、長浜~馬場間は以外に早く1889(明治22)年に鉄道が敷設されてしまった。

馬場~大津間の重要性は低下し貨物支線として運用されるようになった。98年にいったん旅客営業が再開されるも、1913(大正2)年に大津電気軌道(現在の京阪石山坂本線)が国鉄線に重複する形で開業。国鉄は旅客営業を廃止し、これまでの大津駅を浜大津駅と、馬場駅を大津駅と改称した。国鉄と大津電軌では軌間(左右のレールの間隔)が異なるため三線軌条5)での運行であった6)。なお、1921年の新逢坂山トンネル等の開通に併せて現在地に大津駅が新設され、2代目大津駅は現在は膳所駅になっている。

こういう経緯から、京阪石山坂本線のびわこ浜大津~京阪膳所間には国鉄時代の遺構が残っている。石山寺方面に向かう上り線がそうで、図1には島ノ関駅構内の吾妻川橋とその東にある小舟入川橋の位置を示した。いずれも鉄道省の狭軌(軌間1,067mm)に対応した桁に石山坂本線の標準軌(軌間1,435mm)の軌条が乗っている。そのうち前者は、塗装に覆われて見づらいながらも鉄道省の銘板が残っている。

図6 上り線の桁に鉄道省の銘板が残る吾妻川橋

 

1) 神戸~大阪間の鉄道が建設された際に、石屋川等の天井川をくぐるトンネルが施工されたが、これらは、いったん川をつけかえて明かりでトンネルを構築した後、川をその上に戻すという手順で施工された。

2) 1847(弘化4)年、山口に生まれ、松下村塾で学んだ後、オランダ留学を経て1874(明治7)年に「鉄道権助」となって大阪~神戸間の鉄道建設に従事。77年に工技生養成所の教師となる。78年から京都~大津間の鉄道建設に従事し、鉄道では初めての山岳トンネルである逢坂山隧道を完成させた。その後、敦賀線・関ヶ原線・尾張線・武豊線等、天竜川以西の工事を分担した。1923(大正12)年没

3) レンガの積み方のうち主なものは次のとおり。

イギリス積み・・・小口のみの段と長手のみの段を交互に積層させる手法で、強度が優れているとして推奨された。

フランス積み・・・同じ段に小口と長手が交互に現れる手法で、美観に優れているとされるが、土木構造物への適用は少ない。

長手積み・・・断面方向に目地がそろうため強度が劣るとして一般には採用されないが、トンネルやアーチ橋の曲面部にはよく用いられる。

小口積み・・・長手積みと同様、断面方向に目地がそろうためほとんど用いられない。美観に優れるとされ、一部で装飾的に用いられるようだ。

4) 煉瓦によるアーチ橋やトンネルは、断面方向に並んだ煉瓦が上載荷重を圧縮力として下部に伝達することにより成立するのであるが、盛土に対して斜めに設ける場合にもこの作用が働くように煉瓦を傾けて積むという技法が考えられた。この技法はルネッサンス時代のイタリアに遡るとされているが、外国人技術者によってわが国に伝えられたのはほぼ間違いなく、1874(明治7)年に開通した阪神間の鉄道において採用例がある。

5) 1対2線の軌条を敷設するのが通常であるところ、軌間の異なる車両を運転するために片側の軌条を共用し他の軌条をそれぞれの軌間に応じて敷設したものをいう。

6) 1947(昭和22年)には、浜大津~近江今津間を狭軌で営業する江若鉄道(1969(昭和47)年廃止)の乗り入れも開始されている。

 

筆者:坂下 泰幸

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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