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土木遺産㊵ 生駒鋼索線と生駒山上遊園地飛行塔

土木遺産㊵ 生駒鋼索線と生駒山上遊園地飛行塔

2023.7.25

 

鳥居前~宝山寺間の踏切付近ですれ違う生駒鋼索線の「ブル」と「ミケ」

 

生駒山東麓に宝山寺という寺院がある。655(斉明天皇元)年に役行者(えんのぎょうじゃ)が開いたとされる修験道場だが、1678(延宝6)年に湛海律師が歓喜天を祀ったことから生駒聖天と呼ばれるようになり、財運などの現世利益を願う人々の信仰を集める。阪奈間には、1892(明治25)年に大阪鉄道(現在の大和路線)が、98年に関西鉄道(現在の学研都市線)が通じたものの、どちらも生駒山系を大きく迂回していたので生駒からは離れており、遠方から宝山寺への参詣には困難があった。

寺社や文化財の集積する奈良と大阪を最短で結べば観光客を誘引することができるだろうと考えた大阪電気軌道(以下「大軌」という)は、巨額の投資をして生駒山の直下をL=3,388mのトンネルで抜けることを企画し、苦難の末に上本町~奈良間30.8kmを開通させた。1914(大正3)年4月のことであった。同時に生駒駅が開設された。

これにより宝山寺への参詣客に大いに利便をもたらすことが期待された。しかし、山の中腹にある宝山寺へは生駒駅から2kmほどの登坂が必要であった。さらなる利便を図ろうと、大軌が工事を始めてから約1年後の1912(大正元)年、有志により生駒駅予定地から宝山寺までの交走式1)の鋼索鉄道(ケーブルカー)が出願され、翌13年に免許を受けた。そして、大軌開通直後の14年7月に創立総会が開かれ、資本金14万円で「生駒鋼索鉄道」を設立した。生駒鋼索鉄道は、すぐに社長が辞任するという混乱があったが、大軌から派遣された鍵田 忠次郎らが役員に就任して事業が継続され、15年10月に着工した。技術面を担当したのは大戸 武之である。大戸は、東京高等工業学校(現在の東京工業大学)を卒業して京浜電気鉄道(現在の京浜急行電鉄)や阪堺電気軌道で電気技術者として活躍した人物で、15年に大軌に転じていた。その頃、ケーブルカーというのはわが国にはなく、アジアでも香港にあるだけという珍しいものだった。第一次世界大戦(14~18年)の影響で海外渡航が難しかった時代で、大戸には現地を視察することも叶わなかった。しかも、海外からの資材の調達もきわめて困難であり、すべて国内で開発・生産しなければならなかった。努力の結果、18年8月に鳥居前~宝山寺間1.0km2)の鋼索線が誕生した。珍しさに集客は好調で、開業まもなく年間300万人を超えたという。宝山寺への参詣者も急増した。営業成績は良好に推移し、大軌は22年に同社を併合した。そして、1926(昭和元)年には、輸送力増強のため並行してもう1線が追加された。

図1 生駒山麓公園に保存されている創業時の車両

 

ところで、都市近郊で私鉄が盛んに建設された頃は、現代のような通勤・通学交通はまれで、旅客のほとんどは寺社参拝や観桜・観月などの観光目的であった。従って、大軌を含め、ほとんどの私鉄は既存の観光地に向けて路線を敷いたのである。一方、私鉄が自ら観光需要を創出する動きも盛んで、多くの私鉄は沿線に遊園地・温泉・動物園などの遊覧地を開発していた。しかし、大軌はこの流れにやや出遅れた感があって、1915(大正4)年に生駒山西麓に地元資本が開業した「日下(くさか)遊園地」とタイアップして誘客していたに過ぎなかった。自ら遊園地経営に乗り出すのは、それから10年余り後のことで、26年に開園した「あやめ池遊園地」がそれだ。総面積5万6,000坪の土地に草花園、演芸場、小運動場などを設けた。1928(昭和3)年には、温泉が湧出した隣接地に拡張して大浴場、余興場などを設けている。

次いで、大軌は、29年に宝山寺~生駒山上間1.1kmの鋼索線を新設すると同時に、標高642mの生駒山頂に総面積4万坪の「生駒山上遊園地」の営業を開始した。平野部に比べ気温が3~5度低いことから「夏の寒冷線」と称して避暑をアピールするとともに、その優れた眺望を生かした遊具を配置した。とりわけ人気を集めたのは飛行塔だ。塔から突出た4本のアームに吊るされた複葉機型のゴンドラが回転しつつ上下するというもので、高さ約30m、直径約20mという大きさである。大阪平野・奈良盆地はもとより、紀淡海峡・淡路島をはじめ遠く大和高原の山々を望むことができた。

これは、大型遊具を専門にする「土井文化運動機製作所」の土井 万蔵(1883(明治16)~1965(昭和40)年)によるもの。土井の飛行塔は1920年に「千里山花壇」に設置されたのが最初で、翌年には愛宕山遊園地に設置されるなど、急速に広まったらしい。だが、この飛行塔には他に見られぬ特徴があった。塔に展望台が設けられていて、そこに行くためのエレベーターが内蔵されていたのである。しかも、エレベーターとゴンドラはつながっており、ゴンドラが上昇するとエレベーターは下降するように連動していた。少ないエネルギーで駆動させるとともに、より多くの客を扱うことができる工夫である。

図2 現在も稼働する飛行塔

 

生駒山上遊園地と生駒鋼索線が現在まで生き永らえた要因は、実に飛行塔の山頂の立地と展望台の存在にあった。戦局悪化に伴う物資の不足を補うため、1938(昭和13)年、政府は鉄鋼の配給を規制するとともに国民に不要不急の金属類の回収を呼びかけた。門扉・銅像・梵鐘などはもとより庶民の火鉢・鍋釜に至るまで余剰の金属は国に供出するよう求められ、橋梁の高欄やマンホールの蓋が取外され、地方の鉄道は廃止または単線化してレールの撤去が進められた。観光を目的とした生駒鋼索線や山上遊園地の施設類も、通常なら戦時にそぐわないとして当然にその対象になるはずだった。しかし、眺望に優れた遊園地に海軍航空隊が配備され、飛行塔の展望台が敵機の襲来を監視する「防空監視所」に転用されることとなったのである。飛行塔は、ゴンドラとエレベーターを撤去しただけにとどまった。同様に、生駒鋼索線も、宝山寺2号線が撤去されただけで、海軍専用路線として限定的ながら運行を続けた。

設備が保存された宝山寺1号線と山上線は、終戦とほぼ同じ45年8月から営業を再開。宝山寺2号線も53年にレールや車両を新調して復活した。多客期や1号線の検査中に使用する。生駒山上遊園地も再開して順調に入園者を増やし、宙返りコースターなどの絶叫マシンもあって1992(平成4)年には年間77万人を数えたが、エキスポランドやユニバーサル・スタジオ・ジャパンなどの大型テーマパークに押されてその後は減少に転じた。そのため、対象を幼児ファミリー層に切替えて運営している。併せて、2000年に生駒鋼索線の宝山寺1号線に「ブル」と「ミケ」、山上線に「ドレミ」と「スイート」という、著しい装飾をまとった車両を導入した。

こう書くと生駒鋼索線は観光路線としての色に染まっているように見えるが、実際には通勤・通学の利用がかなり多い。始発が6時15分、終発が23時40分、最頻時間帯が7時~8時台というダイヤもそれを物語る。当初は宝山寺と山上遊園地へのアクセスとして敷設されたのだが、宝山寺への参拝者が増えて周辺に門前町が形成されたからである。生駒鋼索線は、2018(平成30)年、開業100周年を迎えた。この間に、観光需要と通勤・通学需要との好循環が形成されたとみることもできる。生駒駅を中心とする住宅地が鋼索線の沿線にも拡大していることも見逃せない。

 

1) 交走式とは、山上側に設けた運転室で巻上げ機を操作して牽引された車両を走行・停止させるもの。軌条は基本的には単線で、離合する部分だけ複線になる。車輪の一方をH字状の溝付きに他方を平滑にしておき、溝付きの車輪を2台の車両で異なる側にすることでポイント(分岐器)を用いずにそれぞれの側に分岐できる。交走式には、車両に動力がないことに加えて保守・点検の必要な個所が集約できるメリットがあり、わが国で一般的に採用されている。交走式以外のものとしては、環状にした鋼索を絶えず循環させておき車両がこれを掴んだり離したりしながら運行する「循環式」があり、サンフランシスコのものはこれ。

図3 宝山寺駅に展示されたケーブルカーの車輪(左)とポイント(分岐器)のない分岐部(右)

 

2) 1979(昭和54)年に生駒駅前再開発に関連して鳥居前駅を移設し、0.1km短縮している。

 

(出典) 「関西の公共事業・土木遺産探訪<第4集>」 p139

※上記の図書は書店では扱っておりません。お求めはこちらをご覧ください。

https://www.hit.or.jp/books/

 

筆者:坂下 泰幸

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