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七反田橋りょうに見る水災との向き合い方

七反田橋りょうに見る水災との向き合い方

2021.3.12

6連の煉瓦アーチ橋から成る七反田橋りょう

 1873(明治6)年から建設を始めた京阪間の鉄道は、英国人技師が工区を分担して建設を進め、76年に大阪~向日町間を開業し、翌年に京都まで全通した。本稿で紹介する七反田橋りょうは、大阪~京都間の煉瓦アーチ橋のうち現認できる範囲で最大の規模を有し、径間4.57mの煉瓦アーチ橋6連でできている。しかし、道路等が使用していない個所もあり、横断という観点から6連の必要性を理解するのは難しい。また、本橋の特徴として、鋭角な石を配した「水切り」を橋脚の西側に設けている(図-2)ことが挙げられる。陸上の橋でありながら西から流れてくる水への対応を想定していることを意味する。

 

 実はこの橋梁は、近くを流れる小畑川の氾濫に備えた「避溢橋」なのである。避溢橋とは、鉄道と河川が交差する地点より上流で河川が氾濫してもあふれた水が滞留しないように、盛土の一部を橋梁にしておくものをいう。七反田橋りょうの規模が最大と言うことは、小畑川の氾濫が大規模なものと想定されていたということにほかならない。現在は、京都府の河川整備が進んで、概ね1時間50mmの降雨に対する整備率は100%になっているが、古来、小畑川は洪水が多かった。図-1に見える一文橋の名は、これが頻繁に流出するのでかけ替えの費用に充てるために通行料を徴したことに由来する。

 

 避溢橋は、災害時に一定の被害が生ずるのを前提にその激甚化を抑制しようとする発想の構造物で、自然の力に対するひとつの向きあい方を示すものだ。避溢橋の考え方は英国人技師がわが国にもたらしたものかも知れないが、災害の多いわが国によく適合し、その後の鉄道や道路の建設にしばしば用いられる手法となっている。

図-1 市街化以前の七反田橋りょうの周辺、小径
があるほかはさしたる交差物件は見られない(国
土地理院旧版地図大正11年測図「京都西南部」)。
図-2 七反田橋りょうの橋脚に設けられた
水切り(南から2連目の北側壁を撮影、よって
写真の左が西側)

 

筆者:坂下 泰幸

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