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土木遺産㊺ 石碑が見守る土砂災害への備え-阪神大水害を受けた住吉川沿川

土木遺産㊺ 石碑が見守る土砂災害への備え-阪神大水害を受けた住吉川沿川

2024.1.5

六甲山へのハイキングコースから見る五助堰堤

 

谷崎 潤一郎の代表作「細雪」は、船場生まれの4姉妹の物語だ。阪神大水害の当日、次女の幸子とその夫の貞之助、娘の悦子と4女の妙子は芦屋に住んでいた。朝7時頃には悦子が「雨の身拵えだけは十分にしたことだけれども、大して気にも留めないで土砂降りの中を学校へ出かけて行」き、妙子も「オイルシルクの雨外套を着、護謨靴を穿いて」本山の洋裁学校に出かけて行ったが、その後、けたたましいサイレンの音が鳴り響き、心配した女中のお春が様子を見に行くとすぐ近くまで水が「滔々たる勢いで流れて」いて自警団から制止されたという。驚いた貞之助が、急いで悦子を学校から連れ戻すとともに、妙子の安否を求めて、「真っ白な波頭を立てた怒涛が飛沫を上げながら」「沸々と煮えくり返る湯のように見える」中に鉄道線路が「地盤の土が洗い去られて、枕木とレールだけが梯子のように浮かび上がって」いるところを迎えに行くという筋書きである。

 

1938(昭和13年は、日本列島の南岸に停滞する梅雨前線が太平洋を北上してくる熱帯低気圧に刺激されて、6月から7月にかけて各地に大雨を降らせた。阪神地区では、暖湿な気流が六甲山地に吹き付けて、7月3日から5日にかけての3日間に総雨量457mmという記録的な豪雨に見舞われた。特に雨が集中したのは5日の朝で、豪雨のために山崩れが多発し、500万m3の土砂が雨水とともに市街地に流出したという。5日には大阪湾の潮位が6~7cm高くなっていたことが観測されており、海面を上昇させるほど大量の水と土砂が流れ込んだのだと考えられている。

 

阪神大水害は、神戸市の人口の72.2%、市街地家屋の72.1%が被災するという大災害であったが、とりわけ住吉川では惨状を呈した。国土交通省近畿地方整備局六甲砂防事務所のホームページに生々しい写真が掲載されており、谷崎の叙述が決して誇張ではなかったことがわかる。

https://www.kkr.mlit.go.jp/rokko/disaster/history/s13/sumiyoshi.php

 

この大きな被害に鑑み、雨が降った時に土砂が流出するのを抑制する砂防事業をより強力に進める必要があることから、これまで県が行ってきた事業を国の直轄で行うこととして、38年9月に六甲砂防事務所が開設された。砂防事業には、①荒れた山腹に植林するなどして土砂の流出を低減する山腹工、②河川を流下する土砂を受け止める堰堤工、③川岸が浸食されるのを保護する護岸工などがあるが、直轄化されて特に進んだのは砂防堰堤の整備だった。

 

現在では住吉川上流に約530基の堰堤があり、その中でも最大のものが1952年に着工し57年に完成した五助堰堤だ。重力式コンクリート造の本堰堤と副堰堤からなり、本堰堤は高さ30m、幅78m。完成から10年間はさして土砂がたまらす効果が実感できなかったが、67年の豪雨で発生した土石流12万m3を受け止めて一夜にして今の姿となった。五助堰堤は、住吉から六甲山頂に向かうハイキングコースの途中にあり、多くの人が訪れる(標題の写真)。六甲砂防事務所が現地に設置した案内板に、六甲山で起こった土砂災害や砂防事業の効果などが掲示してあって、市民の学習に供している。また、ハイキングコース入口の落合橋付近に建つ「水災紀念」碑は、台座に洪水の高さを刻んでいる。

 

ほかにも、住吉川の沿川には阪神大水害の被災を記録する碑がいくつか置かれている。ひとつは、「住吉学園」構内にある「禍福無門」(内務大臣 末次 信正(当時)の揮毫)の碑。住吉川から流出した巨石を堆積した高さ(約3m)に積み上げて碑としているもので、当時の住吉村が建てた。石の重量は約30t。「禍福無門」とは、禍福は決まったところから来るわけではないので常に心を配って過ごせ、という意味らしい。

①「水災紀念」碑

②「禍福無門」碑

③「有備無患」碑

④「常ニ備ヘヨ」碑

⑤「水災復興記念」碑

図1 住吉川沿川にある阪神大水害の教訓を伝える石碑

 

対岸の野寄公園の中にも、本山村(当時)が建てた「有備無患」の碑がある。これも末次が揮毫した。死者11名、流出・半壊家屋700棟余、埋没・浸水家屋1,500棟余という大きな犠牲を村に与えた自然の力を記した後、皆で努力した結果1年余りで復興できたと語って「人力亦不可蔑如也(人の力もまたさげすむべからざるものなり)」と述べているのが印象的だ。

 

再び右岸側に戻って、甲南小学校には、学園の創設者のひとりで文部大臣も務めた平生 釟三郎が校舎再建に際して贈った「常ニ備ヘヨ」という言葉を刻んだ碑がある。甲南小学校では、9時頃に授業を中止して児童を講堂に集めたところを突発的な濁水に見舞われ、4名の児童と付添いの職員が命を失った。水害から5年後、「堅牢ナル校舎ヲ再築茲ニ復興記念ノ碑ヲ建テ将来ノ萬全ヲ期ス」もので、学校を襲った流石を使用し建立された。

 

阪神電車青木(おおぎ)駅の北にある春日神社の境内にも、水害で流されて来た巨石を利用して作られた「水災復興記念」碑がある。西青木地区でも500余戸が水禍を受けるなど被害は大きかったが、諸団体の奉仕と住民一致した勤労により早期に復興できたと記している。

 

1995(平成17)年1月17日の阪神・淡路大震災でも、住吉川では住宅地のすぐ近くで大規模な山腹崩壊が起こるなどの被害を受けた。その後、土砂災害が市街地に及ぶのを未然に防ぎつつ良好な環境を形成するのを目的に、六甲山系の南斜面を一連の樹林帯として育てる「六甲山系グリーンベルト整備事業」が開始された。特に積極的な取り組みが求められる斜面については、砂防施設であると同時に「緑地保全地区」として都市計画決定され、無秩序は市街化の防止も図っている。既存の樹林を痛めない山腹工を導入するとともに、ニセアカシアを中心とする山林をコナラやアベマキなどの樹林地に転換していく方針だ。小学生が拾ったドングリを卒業記念に植樹する「どんぐり育成プログラム」や、登録団体が「森の世話人」になって森づくりを進める活動など、市民を交えた取り組みが進んでいる。

 

このように砂防事業は進んでいるが、災害を防ぐ最後の砦は、緊迫した事態が発生したときの市民一人ひとりの的確な防災行動だ。阪神大水害の経験を受けて建てられた石碑が、災害に対する警戒を怠らないように市民を見守り続けて85年。石碑が諭すところは今も新鮮だ。

 

 

1) 椅松庵とは、昭和7年ごろから谷崎が用い始めた雅号である。谷崎は、関東大震災の後、西宮市から東灘区の範囲で頻繁に転居を繰り返しているが、そのうちでも1936(昭和11)年11月から43年11月までの7年間を松子夫人やその妹たちと居住した住吉村反高林の住居が椅松庵と呼ばれる。六甲ライナーの建設に伴って、1990(平成2)年に東灘区住吉東町1丁目6番50号の現在地に復元移設された。

 

(出典)「関西の公共事業・土木遺産探訪<第3集>」p10

※上記の図書は書店では扱っておりません。お求めはこちらをご覧下さい。

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