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土木遺産㊽ 多大な努力で復元された「ホフマン式輪窯」

土木遺産㊽ 多大な努力で復元された「ホフマン式輪窯」

2024.3.29

復元されたホフマン式輪窯の原姿

 

煉瓦が多用された明治から大正期においては、煉瓦の製造所が各地にあった。大阪近郊でも大浜(堺)や岸和田などいつくもの煉瓦工場があったことが知られている。それらの多くは、煉瓦製造に特化した「ホフマン式輪窯」と呼ばれる楕円形の設備を有していた。しかし、コンクリートが優越するようになると、それらは廃絶していき今では見ることができない。本稿では、多大な努力で40年ぶりにホフマン式輪窯が復元された窯業所を舞鶴市西神崎に訪ねた。

 

ロシアの満州での動きが不穏を告げる1901(明治34)年、全国で4番目の鎮守府として「海軍舞鶴鎮守府」がおかれた。日本海に面して湾口が狭く湾内は波静かという軍港に適した条件を備えていた舞鶴の地が選ばれたのである。初代司令長官は当時海軍中将であった東郷 平八郎。後に日露戦争の勝敗を決した日本海海戦において、連合艦隊司令長官として指揮をとった名将である。舞鶴は山が海に迫っているため、鎮守府の諸施設の整備に時間がかかったようだ。1896年に臨時海軍建築部を設置して直営で建設に着手し、97年から軍港の建設工事を開始した。1901年に軍港水道北吸(きたすい)浄水場が完成、海軍工廠の前身である兵器廠と造船廠1)が発足して業務を始めている。

 

これらの建設のために大量の煉瓦が求められた。その供給を主に担ったのが、由良川の河口近くにあった「京都竹村丹後製窯所」だ。舞鶴には今も海軍の倉庫などの煉瓦建築がたくさん残っており、観光資源として活用されている。これらには京都竹村丹後製窯所から運ばれた煉瓦が多く使用されていると思われる2)

また、軍港と併せて建設が進められたJR舞鶴線3)にも煉瓦構造物が多い。こちらは、煉瓦の刻印から複数の製造所の製品が使われたことがわかっており、いかに突貫工事で建設されたかが伺われる。

 

本稿で紹介する京都竹村丹後製窯所は、 京都五条に住む竹村 藤兵衛ら4)が1897年に興した煉瓦工場で、製品は舞鶴までの10km余りを船で運ばれ海軍に納入された。原料となる粘土や砂は由良川の各地から「ともうち」と呼ばれる小舟で運んだといわれる。

 

煉瓦の製法は、おおむね ①原料を混ぜ合わせてしばらく寝かせる ②調整した土を成型する(これを「素地(しらじ)」という) ③温度・湿度を調整した部屋で乾燥させる ④温度管理をしながら2日ほど焼成する ⑤自然冷却させる ⑥欠けや傷のないものを選別して梱包する という工程を取るが、このうち③~⑤の作業を窯で行う。この製窯所は、当初は登り窯を使用していたので、この工程を繰り返すたびに点火・消火が必要で、燃料の効率性が劣るほか労働力の定常性でも問題をはらんでいた。そこで、大正末期に、高さ約24mの主煙突と窯の一部を再利用して「ホフマン式輪窯」に改造された。

ホフマン式輪窯とは、ドイツ人のホフマン(Friedrich Hoffman、1819~1900)5)が考案して1858年に特許を取得した製法で、わが国では1872(明治5)年に「小菅村煉瓦製造所」6)に築造したのが始まりと言われる。その特徴は、窯を環状に配置して連続して製造できるようにしたことだ。図1で説明すると、①隣の区画との間に紙の仕切りを入れ素地(しらじ)を運び込む ②出入口を閉じる ③隣の区画の熱で紙の仕切りが燃え素地が予熱される ④前期焼成 ⑤中期焼成 ⑥後期焼成 ⑦焼成が完了する ⑧~⑩徐々に冷却させる ⑪外気を入れさらに冷却 ⑫完成した煉瓦の取り出し という手順をとる。翌日は、⑫の区画に素地を搬入し③に火をつけ④と⑤の火勢を強め⑥を鎮火させることになる。隣の区画に順々に燃料を投入することで連続的に火力を維持して作業が続けられる上に、焼成の排熱を隣の区画の予熱に利用するなどの合理性が図られている。

 

ホフマン式輪窯は、かつては全国に50基以上あったようだが、現在は重油を使用するトンネル窯が発明されたことでホフマン式が操業している例はなく、遺構が残っているのもここを含めて4か所だけだとされている。なお、ホフマン式輪窯は、中央に集約した煙突を1本持つものが多いが、本稿で紹介するものは外縁部に11本の煙突を有しており、珍しい形式だ。

図1 ホフマン式輪窯の仕組み(舞鶴市立赤れんが博物館の展示による)

 

京都竹村丹後製窯所は、1958(昭和33)年頃に煉瓦の製造をやめたようで、その後40年間放置され、草木が生い茂る荒涼とした土地になってしまっていた。この土地を所有する会社が倒産して競売に付されていたものが、2011(平成23)年に高橋 照氏が理事長を務める舞鶴文化教育財団の手に渡り、伐開したところそこにホフマン式輪窯が現れたのだ。ホフマン式輪窯は1999(平成11)年に登録文化財に指定されていたが、崩壊寸前で窯には木々が生い茂っている状態であった。その後、文化庁や煉瓦愛好者団体から保存の要請を受けた氏は、これも自分の運命と保存に乗り出すことを決意。学識経験者らの意見をもとに修復方法を決めた。煙突は傾いてひびが入っていたので、切断して上部を地上に降ろした。輪窯の躯体は支保工と目地注入で補強を行った。崩れた部分は無理に補修せず、そこから内部を見学できるような配慮がされている。保存のための調査に約2,500万円、修復工事に約9,000万円を費やしたというが、行政からの補助はわずかでほぼ全額を財団で賄ったという。

図2 修復された窯の内部         図3 壊れたところは無理に補修せず見学用の窓にしている

図4 この窯は燃料に粉炭を用いておりこれを上部の穴から投入した

 

1) 造船廠は、当初は艦艇整備ができる程度の設備だったが、舞鶴海軍工廠に組織改編(1903年)された後は、徐々に設備を充実させてわが国の駆逐艦建造の中心として終戦まで指導的立場をとり続けた。戦後は、飯野産業が設備を引継いで造船業を継続した。 会社は飯野重工業、舞鶴重工業、日立造船、ユニバーサル造船と変わり、現在はジャパン マリンユナイテッド舞鶴事業所となる。民間の造船所となった現在でも艦艇の補修等は続いている。

2) 京都竹村丹後製窯所は、製品に製造所を示す刻印を施さなかったので、それが使用されていることを実証するのは難しい(組成分析により原料となった粘土の産地を特定する必要があるが、そのような調査は進んでいない)。

3) 綾部~東舞鶴間26.4kmの路線。舞鶴へは京都から私鉄の「京都鉄道」が路線を延ばすことになっていたが、日露戦争を控えていたにも拘わらず資金難のため事業が遅延していたことから、官設で福知山~綾部~新舞鶴(現在の東舞鶴)間を事業化。1904(明治37)年11月に開通して、同時に福知山まで達した「阪鶴鉄道」に貸与されて供用した(同年2月に始まった日露戦争には間に合わなかった)。

1) 造船廠は、当初は艦艇整備ができる程度の設備だったが、舞鶴海軍工廠に組織改編(1903年)された後は、徐々に設備を充実させてわが国の駆逐艦建造の中心として終戦まで指導的立場をとり続けた。戦後は、飯野産業が設備を引継いで造船業を継続した。 会社は飯野重工業、舞鶴重工業、日立造船、ユニバーサル造船と変わり、現在はジャパン マリンユナイテッド舞鶴事業所となる。民間の造船所となった現在でも艦艇の補修等は続いている。

2) 京都竹村丹後製窯所は、製品に製造所を示す刻印を施さなかったので、それが使用されていることを実証するのは難しい(組成分析により原料となった粘土の産地を特定する必要があるが、そのような調査は進んでいない)。

3) 綾部~東舞鶴間26.4kmの路線。舞鶴へは京都から私鉄の「京都鉄道」が路線を延ばすことになっていたが、日露戦争を控えていたにも拘わらず資金難のため事業が遅延していたことから、官設で福知山~綾部~新舞鶴(現在の東舞鶴)間を事業化。1904(明治37)年11月に開通して、同時に福知山まで達した「阪鶴鉄道」に貸与されて供用した(同年2月に始まった日露戦争には間に合わなかった)。

4) 京都竹村丹後製窯所の南西にある「湊十二社」に奉納された手水(右図かるという。は、上屋の柱と壁が煉瓦でできており、井筒の内側に彫られた文から竹村のほか薩摩 治兵衛、山田 宗三郎の3名の共同事業であったことがわかるという。

5) ホフマンは、ドイツのグレーニンゲンに生まれ、ベルリン王立建築学校に学び、1858年から製陶業に従事して、同年にホフマン式輪窯の特許を取得した。煉瓦をはじめ石灰やセメント製造にも使われて、築造した窯は1000基に及んだという。ホフマンは、自ら煉瓦工場を経営しつつ、1865年に「ドイツ煉瓦・石灰・セメント製造聯盟」を創立、1870年には王立建築資材研究所をベルリン建築大学構内に設立するなど、煉瓦技術の向上に尽くした。

6) 銀座の煉瓦街を建築するための煉瓦工場で、現在の東京拘置所の位置にあった。円形のホフマン式輪窯が3基あったが、1885(明治18)年にワグネル(Gottfried Wagner、1831~1892)の指導により煉瓦が均一に焼成しやすい楕円形に改良され、併せて燃料を薪から粉炭に変えている。なお、ワグネルは、ゲッチンゲン大学で数学物理学博士号を取得した後、フランスやスイスでいくつかの職を経て1868(慶応4)年に長崎に来て石鹸工場の設立に携わるが、製品開発がうまくいかずに工場が廃止されたところを佐賀藩に雇われ有田で製陶の指導に当たった。その後、大学南校(現在の東京大学)のドイツ語教師になり、京都舎密(せいみ)局や京都医学校(現在の京都府立医科大学)で理化学教師、東京職工学校(現在の東京工業大学)で窯業学教師などを務めた。新たに「旭焼」を開発したほか、化学の知識をもとに青磁や七宝の研究を行っている。

 

(出典) 「関西の公共事業・土木遺産探訪<第3集>」p219

※上記の図書は書店では扱っておりません。お求めはこちらをご覧下さい。

https://www.hit.or.jp/books/

 

 

 

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