2020.10.7
王子公園駅の西で山手幹線を越える原田拱橋(L=65.5m)
1920(大正9)年に阪急電鉄が神戸に達した時のターミナルは現在の神戸市中央区坂口通にあり、都心への延伸が実現したのは1936(昭和11)年のことである。阪急は王子公園(当時の駅名は西灘)から神戸三宮(当時の駅名は神戸)まで3.3kmの高架線を建設するに際して、(1)構造の美観 (2)騒音の軽減 (3)高架下の有効利用という方針を立て、鉄筋コンクリート橋を得意とする阿部 美樹志(1883(明治16)~1965(昭和40)年)に設計を全面的に託した。
阿部は、1903(明治38)年に札幌農学校を主席で卒業して鉄道院に奉職した後、農商務省の研修生としてアメリカのイリノイ大学大学院に留学し、コンクリート工学の世界的権威であったタルボット(Arthur N. Talbot,1857~1942年)教授の下で学位を得るという予想外の成果を挙げて1914(大正3)年に帰国。鉄道院に復帰してすぐに東京~万世橋間の高架橋の設計を担当した。阿部はその完成を見届けて1920(大正9)年に鉄道院を辞し、自らの設計事務所を開設する。そしていくつものコンクリートラーメン橋 1)を手がけながら、隅角部に円曲線を挿入するなど設計を洗練させていくのである。
一方、コンクリートアーチ橋 2)の見せるクラシックな気品ある景観性も捨てることはなかった。阪急電鉄神戸市内線においては、幹線街路と斜交する3箇所にコンクリートアーチ橋を設けた。石材を模した装飾を施すなど細部に行き届いた配慮を見せている。
図-1 JR灘駅の北方にある灘駅前拱橋(L=25.0m)
図-2 灘駅の西にある灘拱橋(L=49.07m)、街路と大きく斜交しているのでねじれて見える
図-3 灘拱橋の側径間部分には石を積んだような装飾が残る
図-4 ラーメン橋で構成される標準部の高架橋
『筆者:坂下 泰幸』
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