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土木遺産⑤ 近鉄道明寺線大和川橋梁-今も現役を務める明治期の英国製鋼橋

土木遺産⑤ 近鉄道明寺線大和川橋梁-今も現役を務める明治期の英国製鋼橋

2020.12.28

2両編成の電車が渡る近鉄道明寺線大和川橋梁(L=216.408m)

 近鉄道明寺線は南大阪線道明寺駅とJR関西本線の柏原駅を結ぶ延長2.2kmの路線である。2両編成の電車が往復しているだけだが、これが501.1kmの営業延長を誇る同社の路線の中で一番古いものなのだ。

 時は1898(明治31)年にさかのぼる。高野山への参詣客を目当てに設立された河陽鉄道が、柏原をターミナルとしてまず古市までを開通させた。当時の柏原は大阪鉄道(湊町(現在のJR難波)~奈良間)を経由して大阪・京都・名古屋と結ばれる位置にあり、全国に広がる信者の参詣に便利と考えたのであろう。が、会社の経営は著しく不振であった。まもなく事業を河南鉄道に譲渡して解散した。同社は1902(明治35)年に長野まで延伸し、ここで高野鉄道(現在の南海高野線)への接続を果たす。

 しかし、同社は柏原から延びる支線的性格ではこれ以上の発展は見込めないと判断。社名を大阪鉄道と変更して(従ってこの大阪鉄道は先述の大阪鉄道とは別物)積極的な路線拡大を図ったのである。そして1929(昭和4)年には大阪天王寺(現在の阿部野橋)~久米寺(現在の橿原神宮前)までを完成させて、吉野鉄道(現在の近鉄吉野線)との直通運転を開始した1)

 このような路線網の形成により、柏原~道明寺間は大和川の両岸を結ぶというローカルな機能を持つだけの路線になってしまった。これが大和川橋梁には幸いした。その後の列車の長編成化や高速化からまぬがれ、建設当時の姿を保つことができたのである。英国人技師ポーナル(Charles A. W. Pownall)2)が示した形式に類似しており、橋梁関係者が「ポーナル型」と呼ぶものだ。

図-1 南河内地域における鉄道網の形成過程
図-2 橋梁の銘板にはCOCHRANE(コクレーン)社とKAYO.RY(河陽鉄道)の文字が刻まれている
図-3 ポーナル型の特徴を端的に示すJ字型に曲がった垂直補剛材

 

1)この積極的投資がたたって同社の経営が悪化し他社に支配される事態に陥った。太平洋戦争が勃発した1941(昭和16年)に国策上の要請もあって関西急行鉄道と合併し、これが現在の近鉄に引き継がれている。

2)生没年不詳。1882(明治15)年に工部省鉄道寮建設師長として来日し、神戸在勤を経て東京に移り、鉄道用鋼橋の標準仕様を確立した。96年、任期満了により帰国。

筆者:坂下 泰幸

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