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宝ヶ池の潅漑システムが作った強固な結束

宝ヶ池の潅漑システムが作った強固な結束

2021.2.19

自然豊かな公園になっている宝ヶ池

江戸時代の京都では庶民の食生活はそれまでとは格段の充実を見たようだ。副菜の消費が増えて近郊の農村から蔬菜類が届けられるようになった。蔬菜類は水稲よりも多くの水を必要とする。近郊農業が盛んになるとともに村々の水争いが激化した。

 

 京都の北に位置する松ヶ崎村は、高野川を挟んで対岸と水争いを続けていたが、不毛な争いから脱却するために松ヶ崎山の北側の湿田をため池に改修することにした。1763(宝暦13)年に代官に願い出て建設。1855(安政2)年に拡張して現在の大きさになった。これが宝ヶ池だ。池で蓄えられた水はいったん岩倉川に流して下流の高野川から取水し、たくさんの水路に分かれて松ヶ崎の田圃を潤す。村では灌漑用水の利用について厳しい決まりを作っており、選任された「水役」が水を公平に分ける業務を行なった。このような水環境は松ヶ崎村の強い結束をもたらした。一村を挙げての日蓮宗転向や「松ヶ崎定法」に基づく自治などにそれが現れている。

 

 宝が池の水は、灌漑用であることはもちろんだが、家々には水路に面して一段低くなった「使い場」があり、洗濯・洗面や野菜洗いなどに使われた。松ヶ崎では集落の東には井戸が1本しかなく、これを飲み水として使ったので、生活のさまざまな場面で水路の水が重要な役割を果たした。

 

 現在では、防火用水や環境用水としての意義が大きいので、水役のほか松ヶ崎消防分団、おやじの会などが協力して水路を管理している。地区の自治は健在だ。また、宝ヶ池は、身近に自然にふれあえる公園として市民の人気が高い。

 

図-1 高野川に設けた井堰の現在の姿、宝ヶ池から流した水をここで引き込む
図-2 松ヶ崎地区にくまなく張り巡らされた水路
図-3 かつては各戸にあった使い場
図-4 松ヶ崎東町にある井戸、1913(大正2年)に上水道が引かれるまで地区の唯一の飲用に使える井戸だった

筆者:坂下 泰幸

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